土深井村(近世)

江戸期~明治9年の村名陸奥国鹿角【かづの】郡のうち南部藩領米代【よねしろ】川が大館盆地に向かって西流する左岸に位置し,秋田藩領との境界をなす藩界を越えて西に三哲【さんてつ】山(393.8m)がある津軽街道(国道103号)に沿い,国鉄花輪線土深井駅がある地点に当たる南の山中には土深井鉱山が位置する「奥々風土記」には「土深井村,登夫加為と云」とあり,菅江真澄の「上津野花」には旧名は飛貝といい,山の谷に溝貝【どぶかい】が埋もれているのが地名の由来であるとしている「邦内郷村志」に,蔵入高68石余・馬60・戸数27・関所・稲荷社・高梨(子)館が記録される館の名から,ここが中世の高梨(村)であることがわかる境目番所・口留番所と呼ばれた関所は,鉱山資源の存在を背景にし,中世末期の秋田安東氏と南部氏勢力の鹿角をめぐる抗争の歴史を前提にしており,御境稲荷は,この国境紛争での境界の移動に困惑した土地の人々が,鹿角側土深井の稲荷社と相対した,沢向こうの秋田藩領沢尻村にも稲荷を建て,両社で境界線の安定を守ってもらおうとしたものであるここには,明治戊辰役にも,南部側総大将楢山佐渡の本陣が置かれた地租改正を機に,花輪通・毛馬内【けまない】通の区分を越え,明治9年末広【すえひろ】村の一部となる

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7260195 |