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脇神村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。出羽国秋田郡北比内【きたひない】のうち。秋田藩領。元和3年8月20日藩家老梅津憲忠から大館給人羽生縫殿丞に宛て,「わき神の内」の開発を勧めた指紙が現存(大館佐竹文書)。元和5年には大館給人鈴木・小林・山口氏らが当村内に給分を支給されている。大館給人の指導下に開発が進められたらしく,「御判紙写帳」(大館市史)記載の大館給人46氏中,28氏が当村とかかわりを持つ。枝郷は延宝3年の新開村という湯車村のほか,藤蕪・堂ケ岱(堂ケ台・堂ケ躰)・川口(小猿部川口)・小勝田(中富小勝田袋)・槐【さいかち】の5か村はいずれも中世末期には小村ながら村名が成立していたらしい。給分指定の際,脇神村本郷と枝郷が別個に記載されている。「正保国絵図」「元禄7郡絵図」ではともに枝郷を網羅して,319石余と図示。郷形はともに小猿部川の左岸部に描く。伝承では,小猿部川と小森川の合流地点西方の,上記絵図に郷形図示の地域が往昔に対島某の脇神村開村の地といい,のち和泉某が小猿部川上流部からの堰用水開削に成功し対岸部の開田進展につれ,枝郷田ノ尻村に移転し現在に継続する集落地となったという(中央小学校記念誌「さわぐち」)。「享保黒印高帳」では村高812石余・当高665石余(うち本田337・本田並123・新田205),「寛政村附帳」では当高696石余(うち蔵分267・給分429)と認定。戸数は「享保郡邑記」で106軒(うち枝郷分79),「秋田風土記」で86軒。「羽陰温故誌」では86軒・440人・馬85頭とある。小猿部7か村中最大の石高を有する村であるが,親郷七日市【なぬかいち】村の寄郷としてその差配を受け,羽州街道小繋【こつなぎ】村内の丁場整備などを分担。村肝煎に花田吉兵衛家がある。村鎮守八幡社のほか,神明社・山神社・水神社・観音堂・相染【そうぜん】堂をまつる。また曹洞宗脇神山天昌寺(大館町宗福寺末寺)および修験大行院がある。文政年間の郡方吟味役小川氏と郡奉行蓮沼氏は,当地方の振興をはかり,阿仁【あに】街道を直線に整備し,街道脇に桑の並木まで植樹し養蚕を勧めた。また川口村近辺に両氏の1字をもって命名した川戸沼【かわどぬま】村を開村したと伝えられる(伊頭園茶話)。「天保郷帳」は665石余。明治11年北秋田郡に所属。同17年七日市村を戸長役場とする3か村と連合。同22年北秋田郡沢口【さわぐち】村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7261523