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飽海郡


一時遊佐郡と称したが,寛文4年幕府の指示により庄内3郡(遊佐・櫛引【くしびき】・田川)を2郡(飽海・田川)に改め,遊佐郡が飽海郡の称に復した。元和8年庄内藩領となり,郡内に遊佐郷・荒瀬郷・平田郷の行政区が設置された。慶安2年5,000石余の松山藩領が置かれた。当郡庄内藩領の石高は,寛文4年5万482石余(出羽国庄内鶴ケ岡領高辻一紙/県史6雞肋編),元禄13年の酒井家秘鑑(鶴岡市所蔵文書)では6万2,318石余,「天保郷帳」23万4,302石余,万延元年の御郡中高辻寺社領付(鶴岡市所蔵文書)では6万6,458石余。延宝9年の庄内二郡寺社領高附(鶴岡市所蔵文書)によれば,寺社領は530石余。反別は,享保6年5万5,278反余(うち田4万8,233・畑7,045)(酒井家秘鑑),明治11年19万6,183反余(一覧全図)。村数は,元禄10年絵図作製の時の覚(致道博物館,酒井家文書)では395か村で本村245(無民家14)・枝村14(無民家6)・小名136(無民家4)とあり,明和7年の御目附御下り之節御答書(酒田市光丘図書館所蔵文書)では小名を除き255か村,本村188・無高および新田59・枝村8,「天保郷帳」では656か村。天和2年の邦御目付江被指出候御帳(雞肋編/県史5)によれば,家数は郷村4,457・酒田2,251,明治11年の一覧全図では戸数1万2,448。人口は,天和2年郷村2万5,871(うち男1万4,321・女1万1,550)。酒田1万2,664(うち男7,079・女5,585)(邦御目付江被指出候御帳/県史5雞肋編),享保5年5万2,938(うち男2万9,577・女2万3,361)(庄内弐郡人数書/県史6雞肋編),天保8年の覚(致道博物館,酒井家文書)では5万8,104(うち男3万37・女2万8,067),明治11年の一覧全図では7万5,569。郡内の湊には酒田・吹浦の2か所があった。松山藩領の石高・村数は,寛文4年の御朱印目録(鶴岡市所蔵文書)では5,212石余・28か村,文化12年の両組御高帳(同前)では6,915石余・39か村。人口は寛延3年の松山藩史料(同前)によれば,6,094人(うち男3,475・女2,619)。明治11年郡区町村編制法が施行されたが,郡の規模は数か村の移動があったのみで,ほぼそのままとなり,郡名もそのまま踏襲された。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7261585