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田川郡


戦国期から近世初期にかけて庄内三郡(遊佐・櫛引・田川)と称した頃は,庄内平野の南西部にあたり,北は最上川をはさんで遊佐郡,南は越後国岩船郡(新潟県),東は櫛引郡,西は日本海に接した。当郡ははじめ上杉氏領で,慶長3年上杉景勝が会津(現福島県)へ移封する際の領知目録(三公外史/県史16)に「一,二万六千八百二石三斗八升八 田川郡」とあり,当郡の明確な区域と総石高が確定している。当時の範囲は,現在の温海町の全域,鶴岡市の大部分と酒田市の最上川以南の大部分を含むものと思われる。慶長3年の上杉氏移封後は最上氏領となり,元和8年庄内藩領となる。寛永元年の庄内検地高辻では石高2万6,140石余。その後慶安2年酒井忠解に分知され大山藩1万石が成立。寛文4年幕府の指示により,櫛引・田川両郡を合併して田川郡とし,遊佐郡を飽海【あくみ】郡と改称し,庄内二郡となった。この時の地域は庄内平野南部全域にわたり,川南とも称した。東は出羽山地をこえて最上郡・村山郡に接し,西は日本海,南は越後国岩船郡,北は最上川をはさんで飽海郡と接している。郡内に庄内藩領のほか,寛永9年から丸岡藩領,慶安2年から松山藩領・大山藩領,天和2年から余目領が混在。そのうち大山藩領は寛永9年,余目領は元禄9年,丸岡藩領は承応2年にそれぞれ幕府領となる。庄内藩領は狩川・中川・櫛引・京田・山浜の五通【とおり】の行政区に分けられていた。寛文3年庄内藩・松山藩の村替,天明元年松山城池浜地分の支給,天明4~8年の一時的な,松山藩左沢【あてらざわ】領6,000石と田川郡幕府領との村替などがあったが,当郡の規模は大略次のようであった。庄内藩領での石高は,寛文4年8万9,588石余(出羽国庄内鶴ケ岡領高辻一紙/県史6雞肋編),元禄13年の酒井家秘鑑(鶴岡市所蔵文書)では13万6,299石余,「天保郷帳」15万9,873石余,万延元年の御郡中高辻寺社領付(鶴岡市所蔵文書)では12万4,185石余。延宝9年の庄内二郡寺社領高附(同前)によれば,寺社領は1,882石余。反別は,享保6年10万7,739反余(うち田9万1,628・畑1万6,111)(酒井家秘鑑),明治11年38万4,374反余(一覧全図)。村数は元禄10年絵図作製の時の覚(致道博物館,酒井家文書)では688か村で本村324(無民家11)・枝村50(無民家4)・小名314(無民家11)とあり,明和7年の御目付御下り之節御答書(酒田市光丘図書館所蔵文書)では小名を除き375か村で本村253・無高および新田76・枝村46,「天保郷帳」では386か村。天和2年の邦御目付江被指出候御帳(雞肋編/県史5)によれば,家数は郷村1万1,001・鶴岡1,263・飛島152,明治11年の一覧全図では戸数1万2,621。人口は,天和2年郷村5万5,951(男3万887・女2万5,064)・鶴岡8,497(うち男4,792・女3,705)・飛島790(うち男434・女356)(邦御目付江被指出候御帳/県史5雞肋編),享保5年8万3,932(男4万7,079・女3万6,853)(庄内弐郡人数書/県史6雞肋編),天保8年の覚(致道博物館蔵,酒井家文書)では8万7,430(うち男4万4,933・女4万2,497),明治11年の一覧全図では13万3,772。郡内の湊には加茂・鼠ケ関・飛島の3か所があった。松山藩領としての石高・村数は,寛文4年の御朱印目録(鶴岡市所蔵文書)では2,787石余・7か村,文化12年の両組御高帳(同前)では3,376石余・11か村。人口は寛延3年の松山藩史料(同前)によれば,1,694(うち男957・女737)。幕領での石高・村数は,明和3年の三郡之毛附割合高帳(同前)によれば,2万5,950石余・72か村。人口は天保12年の人別調書(酒田市光丘図書館所蔵文書)によれば,1万5,634。明治11年郡区編制法が施行され,ほぼ赤川を境に東田川郡・西田川郡に分割された。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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