中山(中世)

戦国期から見える地名。置賜【おきたま】郡北条荘のうち。天文7年の御段銭古帳(伊達家文書/県史15上)に「九貫百文 中山」とあるのが初見。ただしこの内500文は引分である。天文22年の采地下賜録(伊達家文書/県史15上)によれば,小簗川尾張守・粟野右衛門・大津しほち・同源三娘が当地に所領を有していたことがわかる。この内小簗川尾張守は五軒在家とその守護不入権を,粟野右衛門は代在家・日影在家・浮免3,000苅をそれぞれ下賜されている。当地は伊達氏と最上氏の両勢力の境目に位置し,永正11年2月10日最上義定と伊達稙宗との間に戦闘が行われたのを初めとし,以来攻防を繰り返した(赤湯町史)。当地の天守山に築かれた中山城は三方が渓谷で囲まれた天然の要害で,永禄~元亀年間の頃は中山弥太郎が城主であった。「伊達輝宗日記」(伊達家文書/県史15上)によれば,天正2年の最上義守・義光父子の抗争に際し,伊達輝宗は岳父義守を援助するため5月11日当地へ出馬し,七ケ宿街道口の要地楢下【ならげ】を奪い,最上氏領上山辺の高松に放火している。天正16年伊達政宗が大崎義隆を攻撃,これに対し最上義光が大崎氏救援のため派兵し,伊達・最上両氏は再び戦闘状態に入る。天正16年と推定される7月18日付の最上義光書状写(秋田藩家蔵文書/県史15上)に「伊達后室中途へ被出輿,及八十日滞在候而,種々悃望候,殊至頃日,□中山境之地へ三十里被寄輿,侘言候条,侍道之筋目無拠候間,令納得候」とあり,両者の戦いは義光の妹で政宗の母であるお東(保春院)の挺身的な行動によって回避された。同年11月22日の伊達政宗諸役免許状(小国文書/県史15下)に「任中山地訴訟ニ,一諸役諸公事之事,一棟役段銭之事,一成敗人之事,其身所へ理候上,可有其沙汰之事,一牢人衆格護之事,重罪人者可及其閉目之事,一中間共入立之事,何も令免許候」とあり,小国蔵人盛俊に対して当地の居住願いを認め,諸役免除その他の特権を付与している。小国蔵人はすでに天正15年頃から中山城に居住していたものと思われ,同年5月12日には最上・庄内和睦のため中山で合議していた片倉小十郎・嶺式部らが米沢に帰城している(伊達天正日記/伊達史料集下)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7264115 |