及位村(近世)

江戸期~明治22年の村名。最上郡のうち。はじめ最上氏領,元和8年からは新庄藩領。金山郷に属す。村高は,「新田本新庄領村鑑」では元和8年169石余・元禄13年203石余,「天保郷帳」272石余,「旧高旧領」421石余。明和3年の反別35町6反余,年貢高401俵余,家数・人数は,寛政6年72軒・433,文化9年77軒・468,文化12年の馬38,枝郷は鏡沢・田代・朴木沢・塩根川(吉村本新庄領村鑑)。当村は秋田藩領との境に位置する羽州街道沿いの宿場で,村内に往来人を改める口留番所があった。番人は,宝永2年より代官の手代2人が月ごとに交替して勤めた。秋田藩領に至る峠は新庄側では杉峠,秋田側では雄勝峠といい,藩領の境を示す分杭が打たれた。枝郷朴木沢はこの峠と当村の宿場との間に位置し,三郎右衛門という者が御境守と山回りを勤めたが,「当村者山中広くして殊に諸木茂りたるか故に秋田領より下民共越して木を伐取る」という状況であった(新田本新庄領村鑑)。また慶長7年神無月晦日の信太飛騨守外二名連署過所(佐藤文書/戸沢氏以前史料集,県史15上)には「其口人いろめ被成候間,此手はんにて被相通候,此はん無通候ハゝ,誰にても一人も不相通候者也」とあり,「ふうき沢 三郎衛門」にあてられている。なお朴木沢は江戸初期には川内村(現真室川町大字川ノ内)の枝郷で,寛永17年3月7日の舟生治右衛門覚(新田本新庄領村鑑)に「川野内村之内朴木沢屋敷之下左右新田ニ相渡申朴木沢亥(元和9年)之不熟ニ付明申候」とあるように耕作は困難をきわめた。羽州街道は慶長年間以前には有屋峠(現金山【かねやま】町)を経由して役内村(現秋田県雄勝町)に通じたが,秋田への佐竹氏入部以来,杉峠(雄勝峠)越の経路が利用されるようになった。また矢島藩領(現秋田県)に至る山伏峠にも藩境を示す石標が立てられ,枝郷鏡沢には1人扶持・足米免除の口留番人が置かれた。宿駅の馬継は,金山町の願い出によって元禄5年に許可され,糠・藁・青引・雪垣道具の負担が免除された。「雪のふる道」(生活史料20)に「かくて金山より及位に至らんとするに,ふゞきのなごり行かふ人まれにて,馬屋ぢわけがたきよしをいふ。……のぞきに至らばあす院内(現秋田県雄勝町)へいらんにたよりよかるべし」とある。また金山から当地に至る山道は険しく,ひどい道路で,人力車の通行も思うに任せなかったが,イザベラ・バードは「日本奥地紀行」(東洋文庫)に「すばらしい場所にある及位という村」と記し,当地付近の美しさと野性味について述べている。神社は,諏訪大明神・熊野神社・山神社,ほかに薬師堂・地蔵堂がある。旧山形県を経て明治9年山形県に所属。同11年の一覧全図では,反別112町9反余,戸数78・人口508,及位学校がある。同13年主寝坂【しゆねざか】峠・雄勝峠の開削工事が始まる。同14年金山~及位間の道路開通。明治11年最上郡に属し,同22年及位村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7264333 |