北条荘(中世)

南北朝期~戦国期に見える荘園名古代置賜【おきたま】郡の北部を占める米沢盆地の北部,最上川・吉野川・白竜湖南方の大湿地帯(現在は水田)を結ぶ線以北の平野・山間部に広がる建武4年正月18日沙弥某奉書写(秋田藩家蔵岡本文書/県史15上)に「出羽国北条庄下高梨子村田中田在家等地頭職安堵之事」とあるのが初見本文書によれば当時の地頭は池上藤内左衛門尉泰光であった池上氏は相模国足柄下郡池上(現神奈川県小田原市大字池上)を本貫とする関東御家人と思われる池上氏の所領は伊賀(現三重県)・常陸(現茨城県)などの諸国にも散在していた宮内熊野神社(現南陽市大字宮内)の「一山古今日記」によれば,同社は建長2年長井泰秀の修造,嘉元元年には「長井中務大夫貞秀・弟宮内大夫(時于カ)・其弟少輔上総介時茂,妹聟会津八郎左衛門平政盛・斎藤豊後守実忠」らによる再興の対象となった(米沢市史)熊野神社の境内には,長井貞秀を祀るという小祠もあるこれが事実であれば,鎌倉期の北条荘地頭は長井氏であったということになる建武政権樹立後,当荘の地頭職(一部か)は屋代荘(現高畠町・米沢市)の場合と同じく,長井氏から没収され他氏に宛行われることになったと推定される池上氏の所領はその時の宛行いによるものかと思われるだが,長井氏の勢力は間もなく回復し,その支配は,南北朝末期にまで及ぶことになった(長井氏の詳細については成島荘の項を参照)なお,当荘の荘園領主については不明荘園の中心は郡山(現南陽市大字郡山)近辺と思われる郡山は古代の一時期に,置賜郡衙があった所と推定される応永6年篠川(現福島県郡山市)・稲村(現福島県須賀川市)両御所の料地を献上せよという関東管領上杉朝宗の命を受けた伊達政宗(9世)は,「長井はうちやう(北条)の三十三郷」をもってそれにあてようとしたが,「庄なとハ心得かたし,郡ヲ進上」せよと難詰されて遂に謀反に踏み切ったと「余目氏旧記」(県史15下)は伝えており,遅くとも南北朝末期には当荘が伊達氏の領有下に属していたことが知られるまた荘園としての実体もその頃には失われていたと考えられる荘内の郷村は伊達氏家臣に分給されたたとえば天文22年正月17日の伊達晴宗安堵状(湯目文書/県史15上)では湯目七郎左衛門尉に,「従館之売地,北条金山之郷内湯村藤三郎分」「平八在家一間」「雀在家一間」が安堵され,同日付の伊達晴宗充行状(同前)によって「北条金山之郷内湯村つしよ(図書)の助知行之透不残,同中麿之内」「中目在家一間,那智阿弥在家,館之内在家,右京在家並切田畠,町屋しき(敷),何も半分つつ(宛)」が宛行われている天正18年10月3日北条熊野証誠寺(現南陽市)にたいして「北条ほうし(法師)柳之内,熊野仏供あふら(油)田」を安堵した伊達政宗の朱印状(熊野大社文書/県史15上)も知られる伊達氏領国においても当荘は独立した行政単位となっていた天正13年北条段銭帳(県史15上)には荘内の郷村が一括して記され,「北条三十三郷」の実体を如実に示すものとなっている「金山・ミや内(宮内)・中円(中丸)・にしおち合い(西落合)・にしやの目(西矢野目)・新山・くぬき塚(椚塚)・まないた柳(俎柳)・ときさハ(時沢)・卯木・はきう田(萩生田)・ふな入(舟入)・ほうきた・かハとひ(川樋)・ほその目(細目)・関口・雀こうや・矢のめ(矢目)・ゆの目(湯目)・宮内こうや・なへた(鍋田)・なかをか(長岡)・阿ミたてん(阿弥陀田)・ひかしおち合(東落合)・ひやうしの目・中堀・南辻・一はや・こほり山(郡山)・かまふた(蒲生田)・かハはた・あふらこはし(油こはし)・なかとろ(長瀞)・いけくろ(池黒)・ひかしゆの目(東湯目)・うるし山(漆山)」などの郷村名が確認できるこれらの郷村名は文禄3年蒲生高目録に記された北条29か村と大体において一致する伊達氏の転封後もなお,行政単位としての独立性が失われなかったことが知られるただし,天文7年御段銭古帳(県史15上)では北条は独立した扱いを受けず,「屋代庄」に包含されていた置賜地方,現在の南陽市大字赤湯・宮内・金山・漆山などを含む一帯に比定される

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7264696 |