磐城平藩(近世)

江戸期の藩名譜代・中小藩居城は磐城平【いわきたいら】平藩ともいう慶長7年下総【しもうさ】矢作(千葉県)より鳥居忠政が,10万石を封ぜられて成立同10年上遠野【かとおの】・竹貫において2万石を加増されて12万石となる忠政は入封直後より磐城平城の築城に着手し,大坂城を模した広大な城を12年の歳月をかけて築城慶長13年築城に要する経費の捻出と,農民支配体制の確立の必要性から検地を実施した元和8年忠政は出羽山形(山形県)に転封,上総【かずさ】佐貫(千葉県)より内藤政長が7万石で入封藩領は菊多・磐前【いわさき】・楢葉【ならは】・磐城の4郡内228か村内藤氏は125年間,6代在封2代藩主忠興は,城下町の整備や新田開発を行い,寛永12年から慶安2年にかけて領内総検地を実施また明暦3年以降,家臣の地方知行制を順次廃止し,俸禄制をも実施寛文5年表高7万石の磐城平藩は実高9万石を有し,その財源は豊かであったしかし苛酷な年貢収奪は領内農民の困窮をもたらし,6代藩主政樹の代,年来の苛政から,全藩一揆が発生元文3年9月18日,一揆勢は18か条の要求を掲げ,磐城平城にせまった一揆が原因で,延享4年日向【ひゆうが】延岡(宮崎県)に転封,常陸笠間(茨城県)より井上正経が6万石で入封宝暦6年正経は寺社奉行より大坂城代に昇進し,領地を摂津・播磨【はりま】・近江に移され,代わって美濃加納(岐阜県)より安藤信成が5万石で入封安藤氏は7代,115年間在封藩領は,就封当時,菊多・磐城・磐前・伊達の4郡文久元年,菊多・磐前郡内1万3,900石が幕府に上知され,代わって三河・美濃・遠江【とおとうみ】国内で1万7,837石余が与えられた5代藩主信正は,寺社奉行・若年寄を経て,万延元年老中に昇進信正は,遣米使節の派遣,アメリカ・プロシャ・イギリスとの通商条約の締結,皇女和宮の降嫁など,同僚の久世広周とともに困難な幕政を担当した文久2年信正は坂下門(江戸城)外において,浪士の襲撃を受け負傷し,同年3月老中を罷免され,2万石を減領,隠居・永蟄居を命ぜられた戊辰戦争には,奥羽越列藩同盟に加わり,慶応4年5月から8月にかけて磐城の各地で戦闘が行われた9月24日磐城平藩は新政府軍に降伏し,12月に陸中東磐井【ひがしいわい】郡(岩手県)への転封が命ぜられ,国替の取消しを願い出たが,実現しなかった明治4年廃藩となり,7月14日磐城平県が成立し,のち磐前県を経て,福島県に編入された

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7265886 |




