横田(中世)

室町期から見える地名。大沼郡のうち。異本長帳に享徳2年松本右馬允が蘆名盛詮の部将松本筑前守に攻められて日光山に逃れたが,8月12日右馬允は伊南の河原田左近大夫重直の応援を得て横田城主山内大和守俊光の臣小林邑堀金左京の館を攻め落したとあるのが初見。塔寺長帳(続群30上)には「天文十二年七月廿一日,よこたくすれニ 御西さまの御むまいたされ候。御大時候」と見え,蘆名盛氏(または盛舜)が横田の山内氏攻略にて失敗しているが,永禄9年2月20日に蘆名盛氏父子は大沼郡松山に要害を築き,横田城を攻め陥して横田某を生け捕っている。横田氏は蘆名氏に服属してそのまま横田の支配を認められたらしく,永禄10年11月伊夜彦神社鰐口銘(金山町横田字中丸/県史7)には「会津横田 山内越前守藤原俊泰」の名が見え,天正6年に稲川庄野沢村の大槻太郎左衛門が蘆名盛氏に叛いたとき,西方の鴫城主山内右近大夫重勝とともに横田氏ら山内一族は大槻氏を援けている(異本長帳)。「新編会津」の横田村の項には,文治5年の奥州合戦の軍功により,山内経俊が源頼朝から会津郡伊北郷と大沼郡金山谷を拝領したと伝えている。また,村の南東の鷹巣山頂にある城跡は中丸城と称し,山内氏代々の居城であったと伝え,山内刑部大輔氏勝は,天正17年伊達政宗が会津へ乱入した時,軍勢を率いて河沼郡塔寺村まで行ったところで,蘆名義広が磨上原で大敗して常陸へ出奔したことを聞き,横田へ帰って一時政宗へ降参したが,石田三成へ訴え上杉景勝の加勢を得て戦ったが敗北したと記している。また「会津合考」によれば,天正年間山ノ内氏勝は会津郡・河沼郡・大沼郡・越後国蒲原郡・魚沼郡など都合永楽880貫文,村数200余を直支配したといわれる(会津合考)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7270908 |