好嶋荘(中世)

鎌倉期から見える荘園名岩城郡のうち元久元年9月10日の八幡宮領好嶋荘田地目録注進状写に「八幡宮御領好嶋御庄」とあるのが初見(飯野文書/県史7)岩城郡八幡宮縁起注進状案によれば,文治2年7月石清水八幡宮より御正体を勧請し,赤目崎物見岡(平城跡)に社殿を創建して立荘された(同前)源氏の勢力がゆるぎなくなった時点で開発領主岩城氏は,源氏の尊崇深い石清水八幡宮に名目上寄進し所領の安泰を図ったものであろうが,実際には関東御領で石清水八幡宮領は形式にすぎなかったものと思われる岩城氏は奥州合戦に先だって鎌倉との関係を深くしていたのである文治5年の奥州合戦後には預所は千葉介常胤,地頭は岩城清隆となっているこれは奥州合戦の論功行賞として給与・安堵されたものであろう地頭職は岩城氏が継承し,預所職は常胤・大須賀胤信がなり,承元2年には東・西に分けられた東2郷は胤信嫡男通信,西1郷は胤信四男胤村の預所となったその後は三浦義村・資村と継承され,宝治合戦後は北条氏の姻族である伊賀式部入道光西(光宗)が補任された(飯野文書/県史7)宝治元年関東御教書に「陸奥国好嶋庄預所職事,所被仰付也」とあり(同前),このとき伊賀氏は帖絹200疋の進納を命ぜられた翌年6月の置文で光西は子息光綱に西荘(西1郷)の預所職を譲った(同前)八幡宮経所造営役を配分した建長5年7月10日の好嶋庄政所差文案に「東大行事衣谷政所十郎入道沙弥光西判」と見えるので,宝治2年以降も東方(東荘)の預所は光西がつとめたことが判明する(同前)当荘は東西3郷よりなり,元久3年9月10日の八幡宮領好嶋荘田地目録注進状写によると,総田数523町余で,本免107町7反,うち八幡宮関係28町・神宮関係50町・荘官関係33町余,新免118町1反8合,定田297町6反1合であった新免の中には入道(岩城清隆か)領20丁はじめ新田太郎10丁・好嶋三郎10丁・深沢三郎10丁・千倉三郎10丁・片寄三郎8丁・大森三郎10丁・戸田三郎10丁・田戸次郎10丁・大高三郎10丁などが見えるこれは各村地頭の地頭給田であり,各村名を名乗る一族がいたことがしられる入道領20丁は総地頭(荘地頭)領であろう(同前)また荘官関係では郡司・公文・惣追捕使・検非違使などの給田が存在する宝治元年には好嶋荘の年貢は帖絹200疋となっているこれは「為休諸愁」に免ぜられた結果であり(同前),以前はもっと重かったと推定される元久元年の荘田は297町で新田等を除くと250町ほどになる1町別1疋の割で250疋が従来の年貢料であったろうさらに建長元年には50疋が免除されて150疋となり「不嫌旱水損,毎年無懈怠,可被沙汰進政所」と指令された(同前)文永11年8月6日の八幡宮鳥居作料等配分状によれば,好嶋荘は東・西荘に分かれる西荘は1郷で,東目・好嶋・新田・今新田・小谷佐子・仏崎・矢河子・小嶋・河中子・浦田・好嶋田・北目などの村が見え,東荘は2郷で大野郷・奈木・片寄・良谷・富田・田富・比佐・紙谷などの村が見える(同前)宝治2年6月,伊賀光西(光宗)は今新田・小谷佐子・仏崎(荒野を除く)村を「地頭預所兼行所」として子息光綱に譲っているこの3か村は伊賀氏が地頭をも兼ねたところである(同前)伊賀光隆が弘安10年正月20日の譲状で仏崎村内の荒野を子息光清に譲り,永仁元年12月17日付で幕府の承認をうけた(同前)永仁2年11月,伊賀頼泰は備前国長田荘内1村,信濃国麻績御庫八か条の内1村,武蔵国比企郡の内1村,常陸国伊佐郡の内1村,陸奥国岩城郡内好嶋西荘預所職,同領家分飯野郷の内河中子・北目・新田・矢河子,筑紫国なか乃内郡司職を嫡子光貞に譲り(同前),さらに正和4年4月に「しらかはの女子とよまの御前」に好嶋荘内豊間村を譲っている(白河證古文書/県史7)光貞が嘉暦2年7月に盛光に譲った所領は,常陸国石原田郷地頭職,好嶋荘内飯野村・好嶋村預所職のみであった(飯野文書/県史7)南北朝期には建武4年7月28日の弾正忠某・源某連署奉書によると盛光および庶子貞長らの西方本知行分が安堵されている(同前)八幡宮関係諸役配分を見てみると,建長5年7月,東大行事衣谷政所十郎入道沙弥光西と西大行事西庄政所内舎人季吉とが経所造立を配分した(同前)文永6年12月,岩城尼御前代官と社家別当とが「御庄東西地頭々々御中」に八幡宮鳥居造立役を配分し,同11年8月と永仁5年8月には鳥居作料銭等が各村に配分された(同前)嘉暦3年8月,岩城小次郎隆衡・田富三郎・富田三郎が八幡宮造営役を拒否して盛光に訴えられている(同前)建武元年9月には別当庁屋・西庁屋・神子屋・禰宜屋・神人屋の造営役を各村々地頭・預所に配分した(同前)翌年6月には,八幡宮が戦火により消失したので,その造営を東西の地頭・預所に命じた(同前)貞和2年7月には,好嶋・白土・絹谷・大森・岩城・田富・比佐・富田などの村々地頭預所が放生会流鏑馬已下社役等を難渋して盛光に訴えられている(同前)好嶋荘では預所と地頭の紛争が絶えず,文永6年から同9年頃の好嶋田・浦田の公田の荒廃をめぐる抗争,地頭別名の所当に関する争いがある前者は打引(新田)の扱いになり,別名の所当は代銭納が認められた(同前)岩城一族が各村地頭として荒野の開発をすすめていたことがしられるが,この地頭開発地(地頭別名)の所当は准布が立前であったしかし幕府の禁止にもかかわらず銭納化は進展し,文永9年好嶋荘においても銭納が行われている嘉暦年間の西荘の請料は毎年銭26貫500文であった(同前)が,暦応4年11月伊賀盛光は西方年貢30貫文を石清水八幡宮に納めるよう雑掌光智に訴えられた(同前)また貞治4年から翌年にかけて盛光は斯波直持から再三年貢帖絹150疋(代450貫文)を催促されたが,盛光は「当庄西方地頭等雖令催促,不及是非左右候」と弁解したそのため直持は荘内地頭らに直接催促している(同前)好嶋山をめぐる相論も起き,嘉暦4年には好嶋彦太郎泰行が預所の代替りごとの惣検を難渋している(同前)貞治3年4月28日の斯波直持召文・貞治3年12月26日・同29日の斯波直持施行状によれば,盛光と好嶋新兵衛尉とが好嶋田・浦田をめぐって争っている(同前)この争いは応安頃まで続き,応安3年8月10日の伊賀光政和与状案・岩城隆泰請文によれば,光政と好嶋和泉守隆義(吉)とが,「浦田・好嶋田打引之由七町」と「在家六間」を争い,惣領岩城隆泰の斡旋で和与し,隆吉の知行となり(同前),応安6年10月26日の白土隆弘請文・伊賀光政請文案によると,拾五町目村の東の惣境と北目境の合計拾町と在家2宇を争い,惣領隆泰の斡旋で隆弘の知行となった(同前)伊賀氏は北朝方としてのめざましい活動にもかかわらず,次第に岩城一族に圧倒され,戦国期には伊賀氏(飯野氏)は完全に岩城氏の家臣となり,明応8年6月1日の岩城下総守常隆置文により大裏役および他国への陣役を免除され,永正2年には陣役を止められている(同前)戦国末期には岩城氏宿老に飯野隆至の名が見える(秋田藩家蔵岩城文書/県史7)応永8年の祭礼役配分目録に「西庄分」とあるのが最後で,以後荘名は史料上から姿を消す好嶋荘と見えるのは貞治年間頃までで,室町初期には好嶋荘は荘園としての実質を喪失したものと思われる浜通り南部,現在のいわき市下好間,旧平市の市街地,上神谷・中神谷・下神谷・上片寄・下片寄・四倉町付近に比定される

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7270957 |