大山村(中世)

南北朝期に見える村名。常陸国那珂西郡のうち。貞治5年2月10日の奥郡役夫工米切手在所注文に「粟〈上下〉二十町」とあり(税所文書/県史料中世Ⅰ),天文14年11月21日の尊清授尊誉印信に「常州上粟妙法寺」と見え(小松寺文書/県史料中世Ⅱ),妙法寺はのちの大山寺で,大山は上粟ともいったという説もある(郡郷考・新編常陸)。康安2年正月7日の佐竹義篤譲状写に「福王丸分 大山氏」として「那珂西高久半分大山村」と見える(大山義次文書/家蔵文書)。これ以後義篤の子義孝(福王丸)の子孫大山氏が,大山城を拠点として当地を領し,佐竹氏領国支配の一翼を担った。大山城は,年月日未詳の関東八州諸城覚書に「一,(ひたち)大山之城」と見える(毛利家文書4/大日古)。大山氏は,15世紀の佐竹の乱では,延徳2年に山入義藤・氏義父子に太田城を追われた佐竹義舜を大山城に迎え入れ,義定・養長父子ともに義舜を輔佐して,義舜の太田城奪還を実現させた。大山氏は義舜を領内の孫根城(現桂村)に迎えたともいい(新編常陸),里伝では,大山氏は,山間に石窟を設け,義舜とその伝来の家宝を隠したという(中世東国大名常陸国佐竹氏)。天正年間に大山常義・義有父子は,石塚・小場両氏と不和になり,頓化原【とつけはら】(現桂村北方)などで戦い,本家佐竹氏から私闘を責められ和解したという(桂村郷土誌)。大山氏は文禄4年義則の時に小高城(麻生町)へ移され,大山城は廃城となった。大山城跡のある館山のふもとには,東側に上木戸・下木戸・古宿,北側に北宿,西側に西町・田宿などの小字が残る。阿波山の式内社阿波山上神社は,大山城の鬼門にあたるので,大山氏が代々鎮守として崇敬した(桂村郷土誌)。高根の大山寺ははじめ妙法寺といい,のち長禄元年に,大山氏が本堂を建立して大山寺と改めたという。そのほか,阿波山の浄土宗阿弥陀寺は建暦2年行観上人の開山といい,同地の真言宗東徳寺は延徳元年宥喜法師の開基という(同前)。当地は文禄3年の太閤検地を機に茨城郡に属す。江戸期の大山村・高根村の地にあたり,現在の桂村阿波山・高根に比定される。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7272248 |