小栗御厨(中世)

鎌倉期~室町期に見える御厨名。常陸国のうち。西郡と中郡の間に位置する。建久3年8月日の伊勢大神宮神領注文に「常陸国小栗御厨内 給主大中臣氏子 件御厨,去寛治・康和之比建立,保延二年重以貢進,保元年中被下奉免宣旨也,供祭物 上分絹十疋・別進起請二十疋」と見え(神宮雑書/鎌遺614),寛治・康和年間頃に伊勢神宮内宮領として建立されたといわれる小栗保が保延2年に改めて内宮に寄進され,保元年中に「奉免宣旨」を得て御厨になったもので,その成立は平安後期までさかのぼる。建久3年当時の給主は大中臣氏子であったが,元久元年4月23日,九条兼実より宜秋門院任子(兼実娘)に譲与され(九条家文書/鎌遺1448),建長2年11月の九条道家(兼実孫)初度惣処分状に,地頭請所の地と見え,子息一条実経に譲与されている(九条家文書1)。このように領家職は九条家が伝領したが,年月日未詳の一条実経所領目録案に「非当知行 常陸国小栗御厨 同(地頭請所)」と見え(同前),実経の代には九条家領としての実体は失われたものと思われる。弘安田文に「伊勢御厨小栗保 三百二十丁」とあり(税所文書/県史料中世Ⅰ),嘉元田文にも同数値で記載されている(所三男氏所蔵文書)。「吾妻鏡」治承4年11月8日条に「武衛,自常陸国府,赴鎌倉,以便路,入御小栗十郎重成・小栗御厨八田館」と見え,佐竹氏追討の帰路,源頼朝は小栗重成の居館に立ち寄っている。小栗氏は,重成の祖父重義の代に常陸大掾氏から分家して当地に居住し小栗を苗字としたと伝えられ(常陸大掾伝記/続群6上),小栗保の建立に重義が寄与したと推察される。孫の重成は,志太義広の乱に一族中ただ1人頼朝の軍に加わるなど(「吾妻鏡」元暦元年4月23日条),頼朝の信任が厚かったが,「曽我物語」によると,建久4年5月富士の巻狩において頼朝は「常陸国小栗庄三千七百町」を葛西清重に充行ったという。この直前,鹿島社造営奉行であった小栗重成は造営遅引により罷免され(「吾妻鏡」建久4年5月1日条),さらに7月には乱心したとも伝えられており(同書同年7月3日条),この年,鹿島社造営問題の責任を問われたものか。しかし建久6年の頼朝上洛の随兵に小栗二郎(重広,重成子息)の名が見え(同書建久6年3月10日条),当御厨の地頭も小栗氏と考えられる。延元元年(建武3年)8月26日の相馬胤平軍忠状に,「小栗城馳向,於凶徒者,送落城館,令対治候畢」と見え(相馬文書/大日料6-2),同年10月日付の鯨岡行隆軍忠状にも「廿三・四両日小栗城」とあり(鯨岡氏文書/大日料6-3),延元元年8月23・24日,南朝方の攻撃を受け小栗城(現協和町小栗字御城)は落城している。永和3年10月6日の関東管領上杉憲春奉書に「円覚寺雑掌祐重申……小栗保棟別銭貨拾文事」と見え(円覚寺文書/神奈川県史),円覚寺の再建費用として棟別銭が円覚寺に寄進されている。応永23年鎌倉公方足利持氏に対し上杉禅秀が挙兵すると,小栗満重は禅秀に同心するが(鎌倉大草子/群書20),禅秀の敗走により持氏に降り,所領の多くを没収された(新編常陸)。同25年には持氏に対する「隠謀露顕」により小栗城に籠城(長沼文書),6月13日には宍戸氏らの攻撃を受けている(水府志料所収文書/県史料中世Ⅱ)。同29年所領問題から満重は再び挙兵し(喜連川判鑑/古河市史),足利持氏は「小栗常陸孫次郎退治」のため上杉定頼を小栗に発向させた(松平基則氏所蔵文書/小山市史)。翌30年1月19日小栗城は小山氏らに(同前),6月25日にも結城・小山氏に攻撃されたが,大掾満幹から幕府への注進に「寄手八十余人於当座被打,手負不知其員,城衆ハ只一人被打」と見え,城方の勝利に終わっている(満済准后日記)。5月28日には持氏自らも発向し(喜連川判鑑/古河市史),関東管領上杉憲実の軍勢は7月8日に小栗に着陣し(烟田文書/神奈川県史),8月2日城は落城(鳥名木文書/県史料中世Ⅰ),小栗満重は自害したとも(喜連川判鑑/古河市史),三河へ落ちのびたとも伝えられ(鎌倉大草子/群書20),所領はすべて没収された(新編常陸)。応永31年12月23日付で上杉定頼は,「北小栗御厨内小萩嶋郷」を鶴岡八幡宮に寄進している(鶴岡八幡宮文書/神奈川県史)。この頃当御厨は北方42郷・南方24郷の66郷から構成されていたという(小栗系譜)。「鹿嶋大使役記」によれば,南北の分立は文保2年までさかのぼり(安得虎子),小栗重成の曽孫重信は南方と称したという(小栗系図/続群6上)。永享10年幕府と鎌倉府の対立の中にあって小栗助重(満重子息)は,持氏追討のため京都から下向した上杉持房軍に加わり(小栗七郎左衛門家蔵文書/小栗系譜),小栗城に帰城していたらしい。永享12年3月13日には,持氏の遺子春王・安王が,筑波玄朝らとともに小栗城を破っている(諸家文書纂/結城市史)。これにより小栗氏は一時持氏遺子方となったらしいが,嘉吉元年3月12日の伊勢貞国書状に「小栗常陸彦次郎降参之事,上意無子細候」と見え,翌年の2月には再び幕府方に転じている(小栗七郎左衛門家蔵文書/小栗系譜)。このため2月16日に再び筑波・佐竹・宍戸軍に攻撃されたが(諸家文書纂/結城市史),同年4月の結城攻めにも幕府方として出陣し(小栗七郎左衛門家蔵文書/小栗系譜),7月に本領を安堵されたという(小栗系譜)。文安4年には「小栗之内ニ廿所」ほかが小栗助重から小栗次郎三郎(重清か)に充行われている(小栗七郎左衛門家蔵文書/小栗系譜)。ところが康正元年,足利成氏に敗れた上杉持朝とともに助重は小栗城に籠城したことから,4月5日から足利軍に攻撃され落城した(正木文書/古河市史)。こののちの助重父子の動向については未詳。「氏経神事記」寛正6年4月11日条に「常陸国小栗御厨内深見郷不法事成解状」と見えるが(神宮年中行事大成),こののち,御厨としての実体を失い,御厨域は小栗と私称された。文明元年2月11日の弘賢印信案によると,小栗徳聖寺道場において,弘賢は能海に法門の伝授を行っている(観音寺文書/栃木県史)。また天文18年3月19日多門坊改源は,門善坊から譲与された「小栗一円 先達者門井別当門弟引□」をはじめとする熊野先達の旦那職を,5貫文で勝達坊に売却している(潮崎稜威主文書/結城市史)。小栗氏の敗走後,当地に居住した宇都宮家臣小宅景時は小栗蔵人と称したという(小宅三衛門先祖書/常陸遺文)。天文24年3月5日結城政勝は高橋神社(栃木県小山市)に,小栗のうち高山・二郎丸・大和田渡・金屋・今泉三郷・鴻野谷・具地羅・発田,合計3貫文を寄進し(高橋神社文書/結城市史),翌年の2月6日代官(番手)が派遣された(遠藤白川文書/結城市史)。弘治2年11月25日の結城氏新法度の荷留規定(74条)に,「山川・下たて・下妻,惣別此方成敗,中くん・をくり其外之ものならば……にもつ・馬計をさへへし」と見え(松平基則氏所蔵文書/結城市史),小栗は山川以下の国人領と峻別され結城支城領として位置づけられていた。永禄3年1月佐竹・宇都宮氏らの攻撃により(結城家之記/結城市史),当地は再び小宅氏の支配下に入るが(新編常陸),天正6年晴朝は当地を奪還し,3月15日付で,天文24年の政勝寄進状をもとに「小栗之地……合三貫文」を高橋神社に再寄進している(高橋神社文書/結城市史)。天正8年7月2日の結城晴朝直書に「小栗之関,侘言ニまかせ七貫文ニてあつけ候」と見え,丹下左近は7貫文にて小栗の関所を預けられている(今井文書/結城市史)。また天正14年8月23日の結城晴朝充行状に「小栗料所之内五十貫文之所,侘言得其意候」と見え,中郡を結城氏が占領するまでの暫定処置として,結城直轄領の小栗より50貫が多賀谷政広に充行われている(多賀谷季雄氏所蔵文書/結城市史)。この政広は,弘治2年に小栗の支城主となった為広の子息であり,さきの天正6年結城晴朝寄進状に見える小栗派遣の「代官」とはこの人であろう。史料上から確認できる小栗御厨の範囲は,小栗・具地羅・小萩嶋・八田・深見(現下館市)・今泉・高山・大和田渡・金屋・二郎丸・鴻野谷であり,このほか蓬田・高島・小林・上中山・下中山・野村・川澄・横島・稲野辺・市野辺・金丸・直井・成田・塚原・下岡崎・島・蕨・上川中子・羽方・大関・蒔田・国府田・落合・樋口・下高田・古郡・門井・蓮沼・茂田・向川澄・井出・海老沢・横塚・高森・内淀・徳持・川連・吉間・大塚・西郷谷の村々も江戸期に小栗荘と称していたという(新編常陸)。この点から,現在の協和町全域・下館市東部および岩瀬町・明野町・大和村の各一部の地域に比定される。文禄3年の太閤検地を機に真壁郡に属す。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7272358 |