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加志村(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える村名。常陸国久慈東郡のうち。鎌倉期には御家人二階堂伊賀氏の所領で,のち同氏後裔加志村氏が当地を支配した。元亨3年9月23日の関東下知状は,伊賀氏とかかわりのある宇留野大輔宏瑜と二階堂伊賀孫次郎義員後家尼覚法・彦次郎行元母子の間で展開した「常陸国加志村内田壱町・屋敷壱所」に関しての相論を裁許したものである。これによると,訴人宏瑜は永仁5年閏10月11日の覚法・行元等連署契状(去状)を根拠に「当知行于今無相違之処,元亨二年四月押領」を訴えている。これに対して論人尼覚法・行元母子は請文を提出して反論している。すなわち,当村は曽祖父義賢の手から父義員に譲与され知行していたが,「義賢後家尼弘安合戦之時,子息三郎入道自性依令扶持之咎,被収公所帯之時,混当村被召上」として,御内人平宗綱を頼り加志村返付を懇請し,乾元2年6月23日ようやく下文を給った。それゆえ宏瑜が訴えの根拠とする去状を作成した永仁5年は当村返付の訴訟中であり,「争以不知行之所領,可避与哉,又宏瑜可令領知哉,宏瑜者非御家人也,不足其器」と論じている(水府志料所収文書/県史料中世Ⅱ)。義賢後家尼子息三郎の弘安合戦における「令扶持之咎」とは,おそらく霜月騒動における安達方参戦を意味するものと考えられる。元冦を契機とする鎌倉御家人の生活困窮は霜月騒動・筑前岩門合戦を誘発するが,戦後処理として,一族の所領没収に連座したかたちで当地を収公された後家尼覚法をして「亡夫義員逢弘安非分之余殃」といい,永仁5年の宏瑜との契約の動機が「為此訴訟,就方々候天祈於申付進候故」にあった点に如実にうかがわれる。覚法・行元母子の弘安から元亨の約40年間における窮乏は,当時の御家人所領に対する非御家人の知行如何といった社会問題の一齣を物語っている。幕府は御家人擁護の立場から,ここでは永仁5年閏10月11日覚法・行元等連署契状を審査し,「爰行元者,不加判形之上,当村者,行元返給畢……然者,宏瑜訴訟不及訴訟」と裁許を下し,乾元2年6月23日関東下知状写が新たに法的効力を有することとなる(同前)。応永23年8月17日の道珎譲状写では家政に「加志村之内惣領分田畠・在家・寺社・山野・林池等」を譲与している(同前)。翌24年7月20日の足利持氏感状写では二階堂伊賀入道に対して「去年十月以来致忠節之条,尤以神妙也,向後弥可抽戦功」と命じており,上杉禅秀の乱に同氏が参戦している(同前)。永享12年12月7日の義頼書状写は加志村氏にあてて「小倉村之内ニ加志村本領之地在之事,知行不可有相違候」と命じており,加志村氏の本領が小倉村にも存在している(同前)。ちなみに宝徳2年11月27日の義頼書状断簡写(同前),嘉吉3年10月13日の義頼料所預置状写(同前)などから加志村氏と佐竹氏一族南酒出義頼とのかかわりがうかがわれる。明応3年頃と推定される年月日未詳の当乱相違地注文写に「近習知行」分として,「一,か志村〈上ハ小貫佐渡かゝへ候,下ハ小場ニかゝへ候〉」と見え(岡本元朝文書/家蔵文書),また年未詳5月20日の佐竹義治感状写に「数年辛労之上無退屈儀,堪忍之段,誠神妙候」と見えることから(水府志料所収文書/県史料中世Ⅱ),この時期加志村氏の当地支配が退転していたことが推測される。天文23年3月晦日の赤須治部少輔充佐竹義昭判物写に「あふかの内かし村抱,野部かゝい,長山雅楽助抱,たなへかゝい以上卅貫之所,遣之」と見える(赤須治部助文書/家蔵文書)。文禄3年の太閤検地を機に久慈郡に属す。同4年7月16日の佐竹義宣知行充行状写によれば平沢主膳が「かし村の内」50石を充行われている(平沢清右衛門文書/家蔵文書)。年未詳卯月2日の戸沢政盛知行充行状写(水府志料所収文書/県史料中世Ⅱ)は,「新編常陸」の「慶長七年,戸沢右京亮政盛封ヲ多珂郡ニ徒セシトキ,四郎右衛門アリ,出テ之ニ仕ヘ,秩百十石ヲ受ク,政盛出羽ニ徙ルニ及デ,子孫遂ニ加志村氏トナル」という記事に符合し,戸沢氏の加志村氏継承がみられる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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