筑波郡

平安末期に当郡内にも荘園が成立する。康治2年8月19日の太政官牒案に「壱処〈字村田庄〉在常陸国筑波郡内 四至 常安保〈東限筑波河流 西限西郡南条境 南限下総国境 北限大墓〉南野牧〈東限海 西限筑波山 南限筑波河 北限荒張河〉」と見え(安楽寿院古文書/県史料古代),平安末期郡内には村田荘が成立した。村田荘は,当初は常安保と南野牧とを内包し,荘域は当郡のみならず茨城・真壁・新治郡に及んでいたが,南野牧が自立し,さらに12世紀後半までに下妻荘・田中荘が分出したので,常安保を主体とする現在のつくば市北部・明野町一帯の地が村田荘域となった。また,平安末期には当郡の南西部に方穂荘が成立。当郡は南条と北条に分かれる。鎌倉幕府の成立後,常陸平氏の本宗多気氏は御家人として存続したが,建久4年には所帯没収となり失脚したと伝えられ(吾妻鏡),常陸国守護となった八田知家が当郡に進出した。三村郷内に拠点を置いた八田(小田)氏は,筑波社領・三村郷・田中荘などの地頭職を通じて郡内を所領化し,常陸国南部における大豪族に成長した。本宗家は筑波北条の筑波社領(筑波郷)と三村郷の地頭職を本領地として相伝し,筑波南条域とみられる田中荘は庶子家田中氏が地頭職を与えられ,弘安8年の霜月騒動の時まで保持していた。筑波北条の筑波社領(筑波郷)と三村郷が,本宗家が地頭職を有する本領の地として相承された。弘安田文には「筑波北条三百四十八丁一段,郡分百十丁一段半……同南条粟野廿四丁五段大……南条方穂庄九十一丁二段,村田庄二百六十丁,田中庄五百丁」と見え(税所文書/県史料中世Ⅰ),嘉元田文では「一,筑波北条 三百廿三丁四反小……一,南条方穂庄六十四丁四段半,一,下妻庄 三百七十町,一,同加納田中庄五百丁,一,村田庄二百六十町」とある(所三男氏所蔵文書)。田中荘は,霜月騒動で田中氏滅亡後,北条氏領となり,方穂荘も早くから北条氏領となった。郡内には北条氏領が拡大し,小田氏の郡内一円支配は難航した。鎌倉幕府の滅亡に伴って,北条氏領は足利氏領となる。常陸南朝勢力の中心としての小田氏の対応は,延元3年の北畠親房小田入城を期して過熱化したが,南朝劣勢のうちに終わった。すでに建武初年,守護職も佐竹氏に移り,小田氏は本領域を所有する小勢力となった。小田孝朝の代に,田中荘・信太荘・南野荘などの旧領を回復したが,小山若犬丸の乱に荷担した小田氏に対する処断は厳しく,各荘は関東管領上杉氏領となり戦国期に及んだ。室町期の郡内は,小田氏の旧領回復策に対する幕府の対応と,鎌倉府内部の公方方と管領家方の対立抗争による諸勢力の複雑な動きとに推移した。常陸国内諸勢力の相互侵略も激しくなり,小田氏に対しても,結城氏・多賀谷氏・大掾氏・江戸氏・佐竹氏などが侵略を始めた。加えて,越後上杉氏の関東進出と小田原北条氏の北関東進出は,常陸諸勢力の去就を二分し,小田氏の親北条氏的行動に対し,佐竹氏以下の諸氏は,佐竹氏との連合体制に入って小田氏を包囲した。佐竹義昭・義重父子は,永禄年間に小田氏領への攻撃を強化したが,弘治~永禄初年における結城氏と小田氏の対戦が経過する中で,結城氏と北条氏の協調関係を打破すべく,永禄3年4月に上杉氏の関東出兵をとりつけている。同7年1月には,小田氏治の北条氏への内応で情勢が急変し,佐竹義昭・宇都宮広綱の要請により,上杉謙信の常陸出張が実現し,小田城を攻略した。こののちも佐竹義重の対小田氏攻撃は続き,諸氏間の協調関係は激しく変動した。この間に真壁氏・多賀谷氏は完全に佐竹氏麾下となり,特に多賀谷氏は筑波郡内桜川西岸まで進出している。小田氏治もたびたび小田城を落ちて土浦城・藤沢城・木田余城などへの敗走を繰り返したが,永禄12年10月の佐竹氏の小田入城以後は小田城を奪回できなかった。小田城には佐竹氏の客将太田資正が入り,元亀3年には資正の子梶原政景が入城し,小田氏は没落した。梶原氏出陣後佐竹氏一族小場義宗が慶長7年まで在城した。天正18年以降,桜川以東には真壁氏領および佐竹氏蔵入地,桜川以西には結城氏領と東義久領が設定された。なお,文禄3年の太閤検地を機に下妻荘東部,田中荘・方穂荘,河内郡北西部などが筑波郡に編入された。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7275071 |