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常陸国


「日本書紀」景行天皇40年条に「蝦夷既平自日高見国還之,西南歴常陸,至甲斐国」と見え,「帝王編年紀」天智天皇7年条に「常陸国進生角馬」と見える。「古事記」神武天皇巻に「常道仲国造」,「続日本紀」宝亀8年8月丁酉条に「大和守従三位大伴宿禰古慈斐薨。飛鳥朝常道頭贈大錦中少吹負之孫」と見え,天武朝の頃までは常陸でなく常道と称したようである。「風土記」に「古は,相摸の国足柄の岳坂より東の諸の県は,惣べて我姫の国と称ひき。是の当時,常陸と言はず。唯,新治・筑波・茨城・那賀・久慈・多珂の国と称ひ,各,造・別を遣はして撿挍めしめき。其の後,難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇のみ世に至り,高向臣・中臣幡織田連等を遣はして,坂より東の国を惣領めしめき。時に,我姫の道,分れて八の国と為り,常陸の国,其の一に居れり」と見える。「国造本紀」にも新治以下6国の国造任命の記事があり,大化前代の当地方は,新治・茨城・筑波・那賀・久慈・多珂の6国に分かれていた。「風土記」に見えるように,孝徳天皇の世,大化改新後に国郡制の施行によって常陸国となり,6国は新治・筑波・白壁(真壁)・河内・行方・香島(鹿島)・信太・茨城・那賀(那珂)・久慈・多珂(多賀)の11郡(評)となった。建郡(評)の時期は,「風土記」に行方・香島・信太・多珂4郡の建郡記事が見えるほかは史料に乏しく,「風土記」の建郡記事は史実とする説がある一方,建郡申請者として「風土記」に名の見える人物の冠位はすべて天智3年制定のもので,建郡記事には潤色の疑いがあり,実際の建郡(評)施行は天智朝という説もある。常陸国で戸籍がはじめて作られたのは天智天皇9年で,翌年造籍が完成したという(類聚三代格)。奈良期に入ると,和銅6年に風土記撰進の詔が発布され,常陸国でも藤原宇合・高橋虫麻呂らの手によって「常陸国風土記」が編纂された。撰者や撰進時期については,霊亀元年以前説や養老5~7年説などがある。「風土記」によれば,常陸国は「堺は是広大く,地も亦緬にして,土壌も沃墳え,原野も肥衍えて,墾発く処なり。海山の利ありて,人々自得に家々足饒へり。もし,身を耕耘るわざに労き,力を紡蚕ぐわざに竭す者あらば,立即に富豊を取るべく,自然に貧窮を免るべし。況むや復,塩と魚の味を求めむには,左は山にして右は海なり。桑を植ゑ,麻を種かむには,後は野にして前は原なり。いはゆる水陸の府蔵,物産の膏腴なるところなり」という。正倉院に保存されている調・庸布とその墨書には,多珂・那賀・茨城・行方・鹿島・筑波・信太郡の例が残る。常陸国人には防人が課せられ,天平10年の駿河国正税帳には,帰国する常陸国の旧防人が265人と記され(正倉院文書/県史料古代),「万葉集」巻20は常陸国の防人の歌を収録する。常陸国は東北経略の基地として重要視され,奈良期以降武功にすぐれたり陸奥の情勢に通じた有能な一流の人物が常陸守に任命されている。常陸地方の人々は和銅2年の蝦夷侵攻から軍役に徴発され,その後も軍粮や武器の調達,補給物資の輸送,陸奥への移民,俘賊の反抗などで苦しんだ。養老年間には,石城国に設置された海道の駅家に連絡するために,河内・助川・藻嶋など常陸国府以北の駅家が設置されたが,蝦夷侵攻と密接に関連する。常陸国は東海道に属し,駅路は,下総から榎浦駅に入り,国府に通じた。霞ケ浦東岸には国府と鹿島神社を結ぶ鹿島参拝道が通じ,板来駅が置かれた。国府以北の陸奥への駅路は,国府から安侯駅,河内駅,石橋駅,助川駅,藻嶋駅,棚嶋駅を結ぶ駅路が開かれた。蝦夷侵攻が一段落すると,弘仁2年の陸奥国海道駅家の廃止に伴い,翌年常陸国の国府以北の海道諸駅も廃され,山田・雄薩・田後の3駅が設置された。弘仁6年には板来駅も廃された。「延喜式」には河内・安侯両駅の名が見え,この2駅は弘仁3年に廃止となったのち復活したと考えられ,以後国府より安侯・河内両駅を過ぎ,田後駅,雄薩駅,山田駅を経て陸奥へ達する駅路が開かれたと思われる。各駅家の現在比定地については,諸説がある。蝦夷侵攻は常陸国の農民に重い負担としてのしかかり,常陸の古代史に大きな影響を与えたが,弘仁2年に一応終止符がうたれ,その結果常陸国の諸制度に大きな改変が加えられた。駅家の改廃もその1つで,国司制度も改訂され,親王任国制が始まった。天長3年9月6日の太政官符に「応親王任国守事 上総国 常陸国 上野国」と見える(類聚三代格)。「和名抄」によれば,常陸国の田積は,4万92町6反112歩で全国第2位であり,「延喜式」に規定された官稲の出挙では全国最大の数量が課せられている。「延喜式」にあげられている常陸国の貢納物をみると,絹糸・絹織物・麻・麻織物などの繊維類,鹿皮・牛皮などの皮革類,鰒・干物・海藻などの海産物,紫草・紅花・茜などの染料,青木香・桔梗などの香木,薬草類,筆・紙・蓆などの各種手工業製品,蘇(乳製品)・米・馬・鹿角など,多種多様であった。9世紀中頃から末期にかけて,風雨・水旱・地震などの天災地変が頻発し,農民は疾疫と飢餓に苦しみ,田地の荒廃は著しかった。この頃坂東諸国に国司として下向してきた源氏・平氏や藤原氏の分流は,国司解任交替後も任地に土着し,未開地を開発して私有田を経営し,下人や農民など多くの従者を率いて私兵を養い,土豪として成長した。うち1人が高望王で,孫平将門が承平の乱を引き起こす。将門は,承平元年頃伯父の良兼と婦人や父の遺領の問題で争い,承平5年には前常陸大掾源護と戦い,護に荷担した伯父国香を攻め殺した。将門は武蔵国司と対立した興世王,常陸国司に追われた藤原玄明の両名をかくまい,一族との私闘にとどまっていた将門の行動も次第に変質,天慶2年11月常陸国府に攻め入り,12月には下野・上野両国府を襲って,印鎰を奪った。驚いた朝廷は,天慶3年2月に征討軍を出発させたが,すでに東国では平貞盛・藤原秀郷らが決起し,下総国猿島郡の戦いで将門を戦死させた。以後貞盛・繁盛兄弟および秀郷の子孫が常陸に深く根を下ろして勢力を広げる。乱後坂東の治安は極度に悪化し,地方政治の乱れと天災の続発は常陸国の田地を荒廃させた。「小右記」万寿2年12月18日条の常陸介藤原信通の書状によれば,「前司以往作田僅三百町,人民飢餓」という有様であった。しかし,信通の善政により作田も700町に増え,稲も豊かに実り,ようやく復興の兆しがみえ,万寿4年5月に常陸国の百姓が上京して信通の善状を上申したという(小右記)。平安末期に至り常陸大掾氏・佐竹氏など各地に有力な武士が成長した。平安後期から鎌倉期にかけて数多くの荘園・御厨が史料上に登場する。佐都荘・小鶴荘・成田荘・塩籠荘・中郡荘・小栗御厨・真壁荘・関荘・下妻荘・方穂荘・田中荘・南野荘・村田荘・大井荘・信太荘・東条荘などで,有力武士は所領を中央の権門勢家に寄進して地位を固めた。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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