常陸国

古代律令制の崩壊に伴い,常陸国でも平安末期には荘園や公領(国衙領)が成立し,支配をめぐって郡域の変更,郡の私称が行われた。多珂・久慈・那賀の3郡は,多珂・久慈東・久慈西・佐都東・佐都西・那珂東・那珂西の7郡に分かれ,奥七郡と称され,さらに那賀郡から早く分離した吉田郡があった。茨城郡は北郡と南郡および府郡(府中)に,新治郡は東郡(笠間郡)・中郡・西郡に分かれ,このうち西郡はさらに南条(関郡),北条(伊佐郡)に分かれる。また,信太郡は東条と西条に,筑波郡も北条・南条に分かれていた。平安末期,常陸国の北半部を支配したのは清和源氏の流れをくむ佐竹氏で,南半部は桓武平氏の流れをくむ常陸平氏一族の支配下にあった。西部は藤原諸氏の勢力下に属していた。当国が親王任国であったことから,国衙支配は留守を預かる目代や在庁官人によって組織化されていた。とりわけ大掾職は常陸平氏の嫡流によって独占される傾向にあった。鎌倉幕府が開かれると,常陸の諸豪族も幕府の支配に属した。大掾職は常陸平氏の多気義幹が世襲し,常陸守護職には八田知家が任ぜられた。しかし,常陸国一宮鹿島社の遷宮造営に端を発した対立が表面化し,建久4年には大掾職が義幹から一族庶流の馬場資幹に与えられた。守護八田氏は筑波郡小田に館を構え小田氏を称し,小田知重は安貞2年,大掾職補任を要請して再び常陸平氏と対立し,東郡をはじめ田中荘・信太荘・南野牧など国衙周辺地域の掌握に努め,中世の常陸は奥郡を除いて小田・大掾両氏の抗争の中で支配される。鎌倉前期における常陸国の有力武士には奥七郡を領する佐竹氏,吉田郡の吉田氏・石川氏,常陸国府を中心とする地域を領する常陸大掾(平)氏,笠間郡の笠間氏,真壁郡の真壁氏,筑波郡の小田氏,関郡の関氏,伊佐郡の伊佐氏,小鶴荘の宍戸氏,小栗御厨の小栗氏,田中荘の田中氏,南野荘・村田荘・下妻荘の成立に深くかかわる下妻氏などがいた。総じて鎌倉期の常陸国は,源氏の流れをくむ佐竹氏,藤原氏の流れをくむ笠間・小田・関・田中・宍戸・伊佐氏,平氏の流れをくむ常陸大掾・吉田・石川・真壁・小栗・下妻氏などの3勢力によって支配されていた。弘安田文によれば,各郡の田数は多珂郡153町4反300歩,久慈東郡380町2反180歩,久慈西郡248町8反140歩,那珂東郡145町7反300歩,那珂西郡152町5反120歩,佐都東郡289町8反300歩,佐都西郡256町3反120歩,北郡272町4反60歩,南郡262町8反300歩,府郡61町9反300歩,東郡319町9反240歩,西郡南条(関郡)108町5反300歩,西郡北条(伊佐郡)99町1反60歩,筑波北条348町1反,真壁郡534町5反180歩,河内郡27町7反180歩で,鹿島郡・行方郡は前欠のため明らかではない(税所文書/県史料中世Ⅰ)。嘉元田文では,弘安田文と田数に異同がみられるものとして,久慈西郡133町5反240歩,東郡37町,真壁郡417町180歩,筑波北条323町4反120歩,南郡292町7反240歩と見え,ほかに吉田郡223町1反,鹿嶋郡638町9反240歩,行方郡330町8反300歩と記載されている(所三男氏所蔵文書)。一方,荘園としては,弘安田文に下妻荘370町,中郡荘382町6反120歩,小栗御厨320町,方穂荘91町2反,村田荘260町,田中荘500町,大井荘72町1反,信太東(東条荘)270町2反240歩,信太荘620町,小鶴荘400町,南野牧1,191町9反240歩と見える(税所文書/県史料中世Ⅰ)。嘉元田文では,弘安田文と田数に異同がみられるものとして,中郡荘283町1反120歩,方穂荘64町4反180歩,南野荘650町と記載され(所三男氏所蔵文書),ほかに在庁名・別名など公領に属したと思われるものが記載されている。宝治合戦や霜月騒動によって三浦泰村や安達泰盛が滅ぼされると,三浦氏に味方した関政泰や安達氏に荷担した小田氏の一族田中氏の所領は没収されて北条氏領となった。当国内の所領として14か所が検出され,同氏の支配は小田氏や大掾氏を圧迫した。鎌倉幕府が崩壊し,北条氏が滅亡すると,当国の多くは足利氏の支配するところとなった。年月日未詳の足利尊氏・同直義所領目録によれば,尊氏の所領として「常陸国田中庄〈泰家〉,同国北郡〈大方褝尼〉」が見え,直義の所領として「常陸国那河(珂)東〈維貞〉」と見える(比志島文書/神奈川県史)。これらは泰家・大方褝尼・維貞など北条氏一門の闕所地を継承したものであった。足利氏と結んだ佐竹貞義は,尊氏が武家政治を再興すると小田氏に代わって常陸守護に任命された。以後,当国守護職は佐竹氏の継承するところとなり,所領も常陸北部から那珂川西岸地方に広がった。しかし,吉田・行方・鹿島・真壁・南郡などの諸郡では大掾氏の支配力が強く,佐竹氏の勢力は及ばなかった。南北朝期の内乱は当国にあっては前期には北部の瓜連城などを中心として,後期には南部の小田城・関城・大宝城などで,北朝方の佐竹・烟田・行方・鹿島諸氏と南朝方の那珂・小田・関・下妻・真壁・笠間諸氏が戦闘を展開した。これに伴って多くの荘園では荘園領主権が急速に退転していった。元中4年,小田孝朝・小山若犬丸は南朝方残党勢力と難台山城で兵を挙げたので鎌倉府は常陸国守護で小田氏とも縁のある佐竹義宣に出陣を命じこれを落城させた。この戦闘によって当国の南朝勢力は壊滅する一方,佐竹氏の勢力伸張を決定づけた。その後,上杉褝秀の乱・永享の乱・結城合戦などが続発し,当国の諸豪族も命運をかけて戦ったが,佐竹氏もこれらの乱に巻き込まれ,山入氏の反乱など一族内部でも惣領家と庶子家が激しく対立する。惣領家と山入氏の対立は,永正元年佐竹義舜が太田城を奪回し山入氏が滅亡するまで継続している。応永33年には古代末期以来,吉田三頭と称されていた大掾氏一族の吉田・石川・馬場の3氏が支配していた水戸地方に佐竹氏譜代の江戸通房が入り,大掾一族の勢力は後退していった。永禄7年,佐竹氏の家督を継いだ義重は,同9~12年には越後の上杉謙信と結んで,小田原北条氏に好を通ずる小田氏討伐を行い,鎌倉期以来の名家も没落した。義重は同10年に奥州南郷を占領し,天正3年には白河城をも占領した。一方,水戸の江戸氏も同10年前後には当国南部に進出している。戦国の動乱も豊臣秀吉の出現によって統一が進んだ。天正18年,小田原城が落城すると秀吉は佐竹義宣に当国ならびに下野国の内の知行分21万6,758貫文の朱印状を与えた。佐竹氏は本来の根拠地である奥七郡をはじめ,諸豪族が領していた当国中部から南部,下野国の一部を含めた支配権が承認された。一方,水戸の江戸重通,石岡の大掾清幹をはじめ小田氏・菅谷氏・岡見氏・相馬氏などは秀吉の小田原城攻撃に参陣しなかったので,豊臣政権下における存在は認められなかった。同年末,義宣は水戸城の江戸氏一族をはじめ,府中城の大掾清幹一族を攻め滅ぼした。翌19年2月には,本拠太田城に鹿島・行方の大掾一族三十三館主を招きことごとく殺害した。大掾氏一族をはじめとする中世以来の当国の名族は終焉を迎えた。この事件の直後,佐竹義宣は本拠を太田から水戸に移し,ここに佐竹氏は豊臣政権下の大名としての地位を確立した。文禄3年の太閤検地によって,翌4年54万5,765石9升の領地支配を承認され,慶長7年の秋田転封に至る約11年間当国内の統一・支配を強行していった。なお,常陸国では太閤検地を機に大規模な郡域の変動があった。北部からみると,久慈東郡・佐都東郡・佐都西郡は廃されて久慈郡となり,陸奥国依上【よりがみ】保は久慈郡に編入された。久慈西部・那珂東郡,吉田郡の那珂川以北の地は那珂郡となり,那珂西郡,吉田郡の那珂川以南の地,笠間郡,宍戸荘域,南郡西部が茨城郡に編入され,北郡・南郡東部などの地域は新たに新治郡となった。中郡荘域は那珂郡(西那珂郡)となり,小栗御厨の地域,伊佐郡は真壁郡に編入され,関郡は河内郡(西河内郡)となった。南部では,信太荘域が北部を除き信太郡となり,東条荘域は河内郡となっている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7276247 |