部田野村(近世)

江戸期~明治22年の村名。常陸国那珂郡のうち。はじめ佐竹氏領,のち慶長14年からは水戸藩領。村高は,寛永12年「水戸領郷高帳」585石余,「元禄郷帳」668石余,「天保郷帳」792石余,「旧高簿」672石余。「水府志料」によれば浜田組に属し,戸数81,村の規模は東西20町・南北22町余。西・中・南の3組があった。天保4年藩主徳川斉昭は部田野原で鷹狩りと称して雲雀狩りを行った際,1里余の原に自ら図画をひいて「雲雀か丘」と名付けた2つの丘を築かせた。雲雀か丘設置の目的は異国の船などの侵入に対しいつでも兵を出せる準備のためであった。元治元年筑波山で挙兵した天狗党は8月15日山を降り湊村へ攻め入ったが,幕府・諸藩および水戸藩内の保守派の大軍に包囲され,10月中旬,3度に及んで部田野原で大激戦を繰り広げた。地内には土人塩釜明神と称する大石があり,わずかの秣場が戸崎・鎌田にある。神社は弁才天(新編常陸)。明治4年茨城県,同11年那珂郡に所属。明治6年部田野小学校開校。明治22年中野村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7276518 |




