真壁郡

弘安田文に真壁郡として登録されているのは長岡・谷貝・亀隈・細柴・一木・紀三郎名・伊佐々・山野宇・山田・羽鳥・椎尾国貞・同貞則・同助貞・塙世・中村・源法寺・窪・田村・白井・桜井・大国玉社・大曽禰・光行・松久・小幡・竹来であり,大曽禰郷の約112町を筆頭に惣田数は534町5反半に及ぶ(税所文書/県史料中世Ⅰ)。このうち細柴・一木・紀三郎名・光行・松久は,嘉元田文では見えず(所三男氏所蔵文書),また寛喜元年の将軍九条頼経袖判下文によると,これ以外に本木・阿部田・伊々田を確認でき,小幡郷も鎌倉初期には南北に分立していた(真壁文書/鎌遺3848)。室町期には,飯塚・押樋・宮子も郷とよばれており,永享11年の真壁朝幹代皆河綱宗申状案写には「真壁郡者廿四ケ郷也」と見え(真壁安幹文書/家蔵文書),中世の真壁郡は,ほぼ24郷前後からなっていたと推測される。郡域は,現在の酒寄を除く真壁町全域・大和村ならびに明野町東部の一部にほぼ比定され,古代・近世の郡域より狭い。当郡は,興国元年の真壁一族長岡妙幹譲状に「惣郡国香以来数代相伝」と見えるように(真壁長岡文書),平国香以来,常陸大掾本宗家が開発相伝したと伝えられ,平安末期,直幹の子息長幹が分家して当郡に入部し,郡名を名字としたという(常陸大掾伝記/続群6上)。居館は現在の真壁町古城にあったといわれ,長幹の子息友幹は,少なくとも郡内の15か郷の地頭職を保持していた(真壁文書/鎌遺3847・3848)。仁治3年,真壁実幹が長岡郷の安堵下文を得て分家し,長岡氏となったのをはじめ(真壁長岡文書),白井・安部田・飯塚・本木などの庶子が各郷に分家し,ほぼ中世を通じて真壁氏は当郡を支配下においた。永享11年の真壁朝幹代皆河綱宗申状案写に「名字地者,合為十三郷」と見えるが(真壁安幹文書/家蔵文書),これは寛喜元年,真壁友幹から嫡子時幹へ譲与されている14か郷にほぼ相当する(真壁文書)。一方,郡の北部に位置する本木・阿部田・伊々田・竹来・南小幡・北小幡・大国玉・大曽禰の8郷は,鎌倉期までに荘園となり,文治2年,幕府初代問注所執事三善康信の弟康清が預所職に補任されている。康清は,預所名を設定して開発を進め,弘安年間に4反60歩であったこの名は,正和年間には数十町まで増大している(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ)。荘領の地頭職は,ほぼ真壁氏が相伝しているが,正安元年の盛時譲状までみられた荘領・公領の区別は,康永3年の足利尊氏袖判下文以降は見えない(真壁文書)。永和3年には,足利氏満によって,当郡をはじめ常陸国5郡ほかに対し,地頭堀内・寺社本所領を問わず,棟別銭が賦課されており,火災によりこの頃再建工事が進められていた円覚寺の造営費用にあてられた。また至徳元年,氏満が竹来郷中根村を円覚寺に寄進しているのも同じであろう(円覚寺文書/神奈川県史)。翌2年には,安部田郷が鎌倉府の御料所となっている(真壁長岡文書)。応永30年2月16日,真壁秀幹は,この安部田をはじめ真壁荘に属していた本木・大曽禰・伊々田・北小幡・南小幡・大国玉・竹来郷を将軍足利義持から安堵され(真壁文書),同日付で,鎌倉公方足利持氏に抵抗していた小栗満重を援助することを命じられている(真壁安幹文書/家蔵文書)。このことから安部田を除く7郷も,これ以前に持氏に没収されていたが,30年持氏と対立していた幕府から,恩賞として再び安堵されたものと推測される。しかし秀幹は,同年8月,持氏軍に攻撃され(烟田文書/結城市史),持氏に所領をすべて没収された。以後真壁郡は鎌倉府の御料所となり(真壁安幹文書/家蔵文書),このうち白井・窪・飯塚・山田・宮子は宍戸領(続常陸遺文),白井は鹿島社領(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ),塙世は町野領,谷貝は栗田領(続常陸遺文)となった。永享8年,秀幹の甥にあたる朝幹は,持氏に赦免されて真壁郡を預けられ,永享の乱ののちは,秀幹と猶子契約ありと主張する氏幹と本領をめぐって所務相論に及ぶが(真壁安幹文書/家蔵文書),朝幹の氏幹討伐で結着したという(平姓真壁家系)。こののち朝幹は,享徳年間にも某と所務相論に及び,享徳5年(康正元年)の某左衛門尉康定・前下野守義行奉書によると,係争地は折半され,山宇・桜井・田村・山田・下小幡・押樋・上谷貝郷内金敷村半分・亀隈郷内の5か村,ならびに真壁一族白井修理亮・飯塚近江守両人の闕所地が朝幹に打渡されており(真壁文書/古河市史),ここに見えない郷は相論相手に打渡されたのであろう。永禄2年真壁久幹は「名字之地廿余郷」を古河公方足利義氏から安堵されており,戦国期にも当郡は真壁氏の支配下にあった(同前)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7276647 |