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村田荘(中世)


 平安末期~南北朝期に見える荘園名。常陸国のうち。荘域は常陸国茨城郡・筑波郡・真壁郡・新治郡にまたがる。村田荘の起源は,12世紀初頭までには成立していた常安保である。康治2年8月19日の太政官牒案に「壱処〈字村田庄〉在常陸国筑波郡内 四至 常安保〈東限筑波河流 西限西郡南条境 南限下総国境 北限大墓〉,南野牧〈東限海 西限筑波山 南限筑波河 北限荒張河〉」とあり,12世紀に入って立荘された村田荘内に常安保が存在し,その南域は南野牧(のちの南野荘,茨城郡および筑波郡北部域が中心)をも内包する広大な荘園であった(安楽寿院古文書/平遺2519)。「吾妻鏡」文治4年3月17日条には「一,常陸国村田・田中・下村等庄事 或安楽寿院領云々 或八条院御領,年貢可沙汰何御倉候哉」として,その帰属すべき領家が問題となっているが,八条院領との決裁が出され,3荘とも同院領と認められていた。なお,この3荘の立荘の背景には常陸平氏の在地領主としての行動が強く現れており,特に庶流下妻広幹は茨城郡司として筑波郡(北条)司の多気義幹とともに強大な領主的基盤を有していた。この一族が開発権をも含めて領有していた桜川(筑波河)水系辺の条里田の多い一帯を安楽寿院(のち八条院に伝領)領として立荘に及んだものと推定される。その経緯は明確ではないが,常陸平氏一族以外の行動は全く想定不可能であり,同一族が立荘に関する最有力在地勢力である。「吾妻鏡」建久3年9月12日条によれば,村田荘のうち一部(新治郡域)が村田下荘とされて下津真荘(下妻荘)と呼称され,また,上荘あるいは上郷・下郷などに分立伝領されたようである。康永3年7月日の無品親王庁解(妙法院文書)と建長2年11月日の九条道家惣処分状(九条家文書)および嘉元4年6月12日の昭慶門院御領目録(御料地史稿)によるかぎり,上郷は妙法院門跡領,下郷は土御門家領,村田荘(上荘の意か)は九条家領としてそれぞれ伝領されていた。弘安田文には「村田庄二百六十丁」と見え(税所文書/県史料中世Ⅱ),嘉元田文も同数値で記載(所三男氏所蔵文書)。当時の荘域は真壁郡・新治郡内に固定されていたと考えられ,また荘域内の分立の様子は前記のごとく複雑に進行していたようである。建武3年8月24日付の九条道教家領目録案には「常陸国村田庄〈号下妻庄領家職〉同国田中庄〈号村田下庄領家職〉」とあり,村田荘の領家職は九条家に所属しているものの,村田荘・同下荘(下妻荘)・下妻荘加納田中荘の関係とは矛盾し,村田荘の実態はないことになる。この間の差異は不明だが,14世紀に入ってのち,なお当地域が九条家領としての村田荘域の1区であったことは否定できない。延元元年8月26日付の相馬胤平軍忠状には,南朝勢に侵攻された小田氏の拠点として「常陸国小田兵衛介館,籠于御敵,同越中入道館・同田中城并北条城并村田館・同小栗城馳向」とあり村田が小田方の支城として見え(相馬文書/栃木県史),また,同年10月日付の鯨岡行隆軍忠目安状写には,やはり南朝方として同氏の侵攻城館の中に「村田城」があげられている(会津四家合考/栃木県史)。「新編常陸」は,この時期,村田には小山氏流四保氏が居住し,小田在城の北畠親房に味方したが北朝勢に攻略されたと伝えるが,同氏の存在については検討を要する。また,黒子千妙寺僧亮尊著の「拾葉抄」に「村田吉間薬師堂」の記事があるという(新編常陸)。村田荘の荘域は確定しがたいが,現在の明野町を中心としたあたりに比定される。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7276976