吉田郡

嘉元田文に恒冨・倉員・塩井河・大野・石前・武田・大戸長岡・中野根・平戸・馬渡・石河・戸田野,以上223町1反が記され,このほかに「勅免地 吉田社百五十八丁六反半」と見える(所三男氏所蔵文書)。吉田社領は,吉田・酒戸・河崎・吉沼・山本・常葉・袴塚・宇喜の8郷であるから,鎌倉期の当郡は,合計20郷381町7反半の郷・田数になる。吉田神社とその荘園は,平安末期から小槻氏を領家として伝領され,鎌倉期に入ったが,「兼右卿記」永禄8年7月6日条に「常陸国第三宮吉田社領々家次第 鷹司殿 為御朝恩御知行 自延慶年中至今」と見え,延慶年間から鷹司家が領家となったようである。しかし,在地の武士に押領されることが多く,室町初期には,ごくわずかの神官の所領を残して吉田社領の大部分は解体し,永禄9年以後は神道長上吉田家の配下に入った(水戸市史)。そのほか郡内には,現在の茨城町上石崎・中石崎・下石崎周辺に比定される石崎保がある。石崎保は,文永5年11月から同7年正月の間のものと推測される官中便補地別相伝輩并由緒注文案によれば,建久6年に本領主相慶により小槻隆職に寄進され,同9年に官中便補保とされたという(壬生家文書)。石川家幹の七男禅師房聖道が石崎氏を称したと伝えられるから(常陸大掾伝記/続群6上),本領主相慶とはこの禅師房聖道のことであろうか。南北朝期には,石崎保は佐竹氏の所領となっており,文和4年2月11日の佐竹義篤譲状案に「吉田郡石崎保」と見え(佐竹文書/福島県史),嫡子義香(義宣)に譲与され,康安2年正月7日の義篤譲状写では小田孝朝妻(義篤娘)に譲与されている(大山義次文書/家蔵文書)。鹿島神宮領田数注文案に「吉田郡戸田野廿五丁一反三百歩」「吉田郡四十一丁一反大 白方十四丁半 平戸十一丁一段」と見え(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ),戸田野―白方―平戸などは鹿島神宮領であった。平安末期以降当郡内で勢威をふるったのは,常陸大掾氏一族の吉田・石川・馬場の三氏で,吉田三頭といわれる。吉田盛幹―幹清―広幹と続くのが吉田惣領家で,那珂川北岸に勢力を伸ばし,盛幹の次男家幹の系統は石川氏を称して那珂川南岸に勢力を伸張した。さらに石川家幹の次男資幹は馬場氏を名乗り,建久4年に常陸大掾家嫡流の多気義幹が没落すると,その所領・所職を継承して常陸大掾職に就任し,幕府の信任を背景に那珂川の両岸にわたって勢力を拡大した。資幹は,「石川氏旧記」に「石川二郎家幹十人子息……二男 助幹大掾 戸田野主」と見え(新編常陸),部田野古屋敷(現ひたちなか市)に館を構えて戸田野郷の開発に尽力し(勝田市史),次いで江戸期の水戸城本丸の東隣の地に館を構えたが,大掾職を世襲したため,常には府中の館に居り,家来の多くは府中に住んだものと思われる(水戸市史)。鹿島神社の大役は馬場氏が府中と分けて南郡役をつとめ,吉田郡役は吉田・石川両家でつとめる例であったという(水戸市史)。南北朝期以後常陸大掾一族の勢力は後退し,代わって江戸氏が当郡内に勢力を伸ばした。江戸氏は,建武3年12月の那珂氏の族滅の際に,ひとり難を逃れた通泰が,のち貞和6年に高師冬の軍勢に従って石見国鼓が崎城を陥落させた功により,江戸郷を恩賞として与えられたことにはじまる。その子通高の時から江戸氏を名乗り,通高は嘉慶2年の難台山城総攻撃に参加して討死,その功により子の通景に那珂西郡河和田などの大掾氏の旧領が与えられ,河和田城へ本拠を移した。その頃大掾氏は至徳3年の大掾詮国の没後嗣子永寿丸が幼少のため,家臣の頼国・国貞が府中にあって政務にあたり,弾正忠久親が水戸にあって一族を治めるという状態で,応永23年に上杉禅秀の乱が起こると,大掾満幹は,禅秀党に与して,一門の勢力挽回を図ったが,翌年敗れ,勢威は一層弱体化した。応永末年江戸通房は水戸城を占拠,同城は江戸氏のものとなり,大掾氏は府中にとどまることとなった。以来水戸城を本拠とする江戸氏の支配が7代160余年間続く。江戸氏は,佐竹の乱を機に自立性を強め,文明13年の小鶴原(現茨城町小鶴)の合戦ののち現在の茨城町小幡を本拠として茨城町一帯を支配していた小幡氏を服属させて涸沼川流域を制し,同18年には烟田・徳宿両城を囲むなど鹿島郡へも進出した。また,佐竹の乱に乗じて佐竹領を押領,永正元年に佐竹義舜が太田城を奪還すると,同7年に義舜と江戸通雅・通泰父子との間に盟約が成立し,江戸氏は佐竹氏と「一家同位」の格式を与えられた。しかし,江戸氏は,小田原の陣に参陣しなかったため豊臣秀吉に認められず,佐竹氏の武力進攻を受け,天正18年12月に根城13館8か所を焼かれ,水戸城は落城,江戸重通らは結城に逃れた。「袴塚村本行寺過去帳」は,12月19日に勝倉台(現ひたちなか市勝倉)の合戦で江戸氏の家臣笹嶋小四郎重道が戦死したことを伝える。文禄3年の太閤検地により,那珂川南岸は茨城郡,北岸は那珂郡に編入され,郡名は消滅。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7277339 |