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足利町(近世)


 江戸期~明治5年の通称地名。足利郡のうち。郷帳類では五箇村と足利新田からなり,2村の連続街区を足利町と通称した。この通称は周辺の足利郡・梁田郡の村民の間で早くから用いられ,寛文12年の「子の年藤本村差出し之事」(尾林溥文家文書),享保17年の「借宿村明細帳」(近代足利市史)などに用例がある。公称としても,文政10年の改革組合村編成に伴い足利町と称されることもあった。安政2年3月の村明細帳(近代足利市史)でも足利町と見える。はじめ幕府領,寛永10年下総古河藩領,正保元年大名土井利房領,天和2年幕府領,元禄2年常陸笠間藩領,同13年甲斐谷村藩領(ただし「元禄郷帳」では足利新田・五箇村ともに幕府領),宝永2年からは足利藩領となり,同藩の陣屋所在地となった。検地は慶長11年(下野国足利郡五箇郷村方新田町明細帳)・寛永3年(下野国足利之庄五か郷御検地水帳)・正保年間(近代足利市史)に実施された。村高は,「慶安郷帳」では五ケ新田5石・五ケ村1,844石余,「元禄郷帳」「天保郷帳」ではともに足利新田120石余・足利五ケ村2,016石余,「旧高旧領」では新田村105石・五個村1,932石余。なお,「旧高旧領」には寺社領が見えるが,足利学校・鑁阿寺・長林寺領は五箇村内に,法玄寺領は足利新田内にある。当町の中心は五箇村西部の山麓,中世長尾氏の城下部分で,長らく足利本町と呼ばれた。また,五箇村東部,足利新田の北側には足利氏館跡でもある鑁阿寺,それに接して足利学校があり,その一帯は特ににぎわったという(鑁阿寺文書)。寛永3年の水帳によれば屋敷数458,うち本町65・二日町14・うら町20・大工町14・本下町南64・新町38・南方56・田宿50・小谷31・明石12・法楽寺9・大野39・大児玉7・桜本14・横町25(近代足利市史)。宝永年間の「足利町之図」では,新田町に上町・弐丁目・中町・下町,五箇村(本町)に二日町・八日町・横町が見える(同前)。宝永2年から置かれた足利藩戸田氏の陣屋は,五箇村のほぼ中央部に置かれた。足利郡・梁田郡の足利藩領は4,814石であったため,藩士の足利在住者は40名前後であった。入部の頃の足利町の規模は,西から,本町4町,八日町南北4町,新田町8町,そして横町は南北に1町半あった(同前)。享保18年の足利五箇村五箇新田町明細帳では,家数847・人数4,438,うち上町83・770,下町84・585,学校領54・231,鑁阿寺領133・563,五箇村220・942,本町234・1,440,横町39・207(同前)。寛政年間の三郡明細帳では家数841,うち上町90・下町77・学校領62・鑁阿寺領140・五箇村227・本町198・横町47(同前)。中期以降,当町は織物業の発達とともに発展を遂げた。桐生の絹と異なり,綿および絹綿の織物が当町を中心とした周辺農村の賃機によって生産された。文化・文政年間以降とくに発展し,天保3年には桐生(上野国桐生新町)の市場支配から脱し,足利織物市場をもつに至った。織物は,東南の北猿田【きたやえんだ】村の渡良瀬川猿田河岸から,高瀬舟によって江戸の問屋に運ばれた。慶応3年の「足利組織屋連名帳」によれば,安蘇郡を含む織屋仲間607名中,五箇村に116名,足利新田に59名,計175名の織屋がおり(同前),分業を統轄して織物生産に当たっていた。足利町の市街地には,織物に関連する買継商・糸商・染料商・機料(機道具)商などが集住し,特に新田町側が繁栄した。足利藩の陣屋町として安定し,織物業で栄えた当町は,従来の在郷町から地方都市の色彩を強めていく。足利学校は幕府の保護を受け,文人の来訪が相次いだ。また,町の発展とともに,和歌・俳句・茶道が盛んとなり,寺子屋・塾も11か所に至った。しかし,その他方で水呑などの下層農民の数も増加して社会問題となり,天明3年・文久元年には大規模な打毀も発生した(同前)。安政2年の家数・人数は,新田町525・1,818,学校領95・285,鑁阿寺領260・831,五箇村378・1,386,本町349・1,225,横町74・330(同前)。著名人としては画家田崎草雲(足利藩士・勤皇誠心隊長),漢学者川上広樹(足利藩士・藩家老),歌人奥河内清香,俳人須永嵐斎,医師鈴木千里,画家新井勝重らを生む。明治維新後,当町は織物産業のあり方をめぐり紛争が続いた。明治4年7月足利県成立と同時に県庁が五箇村に置かれた。しかし,同年11月に栃木県に合併され,足利支庁は五箇村法玄寺に置かれた。明治5年足利新田が足利町と改称し,はじめて公称となった。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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