上阿久津村(近世)

江戸期~明治22年の村名。塩谷郡のうち。「慶安郷帳」「寛文朱印留」「元禄郷帳」「改革組合村」「旧高旧領」ともに宇都宮藩領。村高は,「慶安郷帳」526石余(田340石余・畑185石余),「元禄郷帳」706石余,文政11年氏家宿助郷村高帳および「天保郷帳」「旧高旧領」ではともに739石余。「改革組合村」では氏家・白沢宿組合寄場に属し,天保年間の家数117。奥州街道の開通により鬼怒川の渡船場が設けられ,また阿久津河岸も設置されて水陸ともに交通の要所となった。阿久津河岸は上阿久津河岸とも称し,鬼怒川通り七河岸の1つで,慶長年間に東北諸藩の江戸への廻米積出し河岸として成立した。慶安4年「下野一国」に上阿久津河岸の名が見え,また,元禄3年「道法并運賃書付」には阿久津河岸が廻米積出し河岸として見え,江戸までの距離58里,米100石について運賃6石となっている。河岸問屋は久右衛門家(若目田家),宇都宮藩の廻米・御用荷物の積出しや近隣の木材・林産物の積出しのほか,東北地方から陸送された米穀・諸荷物の江戸への積出しを扱った。また,七河岸の船数割当などは割元問屋である板戸河岸の五兵衛が扱ったが,江戸御用竹木の筏下しや宇都宮藩御用の薪炭の積出しなどに関しては久右衛門が差配した(県史通史編4)。舟運上は,寛永11年には鵜飼船1艘1往復の航行につき7文ずつ,承応3年以降は船1艘につき1年に金1分2朱とされた。また,河岸場運上(荷口銭)は承応3年以降荷物1駄につき鐚1銭ずつを徴収され,河岸問屋が一括納入した。同河岸と板戸河岸には諸荷物を改める河岸横目(目付)が2名ずつ配置され,正徳2年の舟割証文には舟肝煎として三郎右衛門・善兵衛が見える。川下げ荷物の船賃は,万治4年(寛文元年)の場合,中継地である久保田河岸まで米・煙草1駄につき85文2分となっている(県史近世3)。鬼怒川沿いに新河岸取立てが何度か試みられるが,七河岸および七河岸に諸荷物を陸送する諸街道の村々が反対し取り止めになっている(県史通史編4)。阿久津河岸には諸藩や商人の倉庫をはじめ,旅籠屋・料理屋・商店・馬宿,また船頭・船大工などの各種職人が8町にわたって軒を並べた。百姓も半農半商が多くなり,諸国からの移動も激しく人口動態は不明確である。河岸からは廻米のほかに,和紙・漆・木器・煙草・木炭などを積出し,また乗客船も往来し,江戸との文物交流が盛んであった。元禄3年の小鵜飼船707艘,寛政2年には河岸荷駄が13万駄。神社は高尾神社・船魂神社があり,高尾神社の祭神は高龗神,祭日は10月19日,船魂神社は河岸の守護神で,本殿には極彩色の彫刻があり,町文化財に指定される。寺院には真言宗東円寺があったが明治4年に廃寺となる。明治4年宇都宮県を経て,同6年栃木県に所属。明治初年の戸数160・人口742。同7年民営の新河岸が許可された。明治14年の戸数129・人口969,上阿久津河岸の船問屋数1,下流の板戸河岸まで2里,東京までの里程は45里であった(県治提要)。同17年には陸羽街道(現国道4号),同19年は日本鉄道(現国鉄東北本線)が開通し,河岸の運営は衰微した。当地への新停車場誘致も不発となり,河岸は消滅の運命をたどった。明治22年阿久津村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7278427 |