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薗部村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。都賀郡のうち。はじめ皆川藩領,のち幕府領を経て慶長17年旗本市川氏知行,天和元年下総古河藩領,元禄年間再び幕府領,宝永4年旗本松田・松平氏の相給,享保10年からは壬生【みぶ】藩領を加えて3給となる。なお「旧高旧領」では壬生藩772石余・松田氏242石余・松平氏254石余。村高は「慶安郷帳」1,263石余(田365石余・畑753石余・野銭5石余・延石139石余),「元禄郷帳」1,268石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに1,269石余。助郷は例幣使街道栃木宿に出役。村の広さは東西1里8町・南北7町。水稲を中心とし,麻・大豆・綿などの商品作物を栽培する。用水は主として永野川と東郷堀を利用。「改革組合村」では栃木町組合寄場に属し,天保年間の家数63。慶応4年の軒数108(栃木市史)。鎮守は太平山の主峰(富圭山とも呼ぶ)に祀られた浅間神社で,祭日は7月30日。富士信仰の社で,例祭には登拝する人々でにぎわいをみせた。また字後山の丘陵地には愛宕神社・雷電神社,巴波川西岸の字鶉島には天満宮・大日堂が祀られていた。字長宮には長宮神社があり,その社に私塾がおかれたという。寺院には三連寺および真言宗智山派薗部山地蔵院満福寺があったが,天正年間に皆川氏によりそれぞれ廃寺・移転となり,三連寺については三連地,寺内塚の字名が残存,また地蔵院についてはその後一堂が残り,留守僧が居住した記録がある(前橋家文書)。名主は旗本松田氏領が前橋家,松平氏領が大豆生田家,壬生藩領が増山家の世襲。慶応4年の戊辰戦争時には壬生藩主が名主増山理右衛門の家へ避難する事件が起こっている(栃木市史)。また増山家は幕末に酒造業を営んでいたが,2代目横綱綾川五郎次は少年期にそこで働いていたという。明治4年栃木県に所属。同14年の戸数288・人口1,327,馬56,荷車9。物産は米・大麦・藍葉・皮麻・大豆・小豆・蕎麦・大根・繭・里芋など。明治5年巴波川西岸の字鶉島に栃木県庁を設立。敷地東西175間・南北176間で,周囲に堀をめぐらした(現在の県庁堀)。同地に獄舎・懲役場などを設置。同9年本格的な庁舎を上棟。明治8年県庁南側に栃木女学校を開設,同12年には県立第一女子中学校(現県立宇都宮女子高校)と改称。同所に隣接し,明治10年栃木師範学校を新築移転。同12年栃木中学校を分離し,栃木県第一中学校(現県立宇都宮高校)と改称。しかし,同17年の県庁の宇都宮町への移転に伴い,これらの学校はともに同町に移転した。同18年旧県庁舎に栃木小学校を移し,近隣の小学校を併合した。同20年栃木尋常小学校と改称,郡立第一高等小学校を併置した(栃木市史)。明治11年下都賀郡に属し,同22年栃木町の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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