西川田(近代)

明治22年~昭和30年の姿川村の大字名。明治24年の戸数108・人口733(男386・女347),学校1,水車場2。大正3年の戸数135・人口1,218。世帯・人口は昭和4年160・1,019,同28年349・1,997。明治22~27年の村役場所在地。米のほか干瓢・苧麻を産し,明治中期から養蚕が盛ん。昭和5年幕田の養蚕業者と姿川村第2養蚕実行組合をつくり片倉製糸の特約組合となった。のち蔬菜栽培が盛んになり西瓜・真桑瓜・白菜・里芋を多く生産。ハウス農業も発達。栃木街道(現主要地方道宇都宮栃木線)の黒木橋に立場がありにぎわった。明治末期から昭和初年頃まではトテ馬車,大正12年に丸宇自動車商会の乗合自動車が宇都宮~安塚間を走った。昭和6年東武宇都宮線が開通,西川田駅が開業,大谷からの軽便鉄道を鶴田から西川田駅まで延長し石材輸送を行った。昭和8年駅東方に宇都宮競馬場ができ,同23年からは県営となる。姿川村も開催権をもった。昭和23年競馬場東南部に県営宇都宮総合運動場の建設が始まり,同26年陸上競技場・野球場・プール・テニスコートが完成した。昭和23年鶴田駅南部に姿川中学校(昭和22年開校)が完成した。昭和17年中島飛行機宇都宮製作所工場ができると,北東部の山林に工員住宅・社宅が建設され戸数1,000戸を超えた。第2次大戦後宇都宮市の戦争被災者・引揚者が西川田寮・松鶴寮に収容され人口はさらに増加したため小・中学校などの教育問題もあって昭和27年社宅地区は宇都宮市大塚町・八千代町1~2丁目・東原町・東浦町となる。上記5町の世帯1,063・人口4,805,面積44町8反余。昭和12年東部の若松原に埼玉県入間郡から第1次入植者が,同16年には北海道から第2次入植者が入り約80町歩の農場が開かれていたが一部が総合運動場敷地となり立退き,他は交通上の問題から雀宮村へ編入した。昭和12年中心部の火災で住宅など42棟を焼失。昭和30年宇都宮市西川田町となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7280141 |