贄木(中世)

南北朝期から見える地名。都賀郡のうち。応安元年9月日の嶋津弥三郎代田村忠長軍忠状に「(8月29日)其夜於木御陣致警固,其後於所々御陣宿直仕」(嶋津文書/県史中世3),同月の市河頼房代難波基房軍忠状に「八月廿九日横田要害・廿九日贄木城合戦抽忠功」(市河文書/県史中世3),同年10月日の善波胤久軍忠状写に「八月廿九日攻落贄木城,致忠節」などと見える(諸国古文書抄/県史中世3)。貞治6年3月,足利基氏が没すると,翌応安元年川越氏・豊島氏・江戸氏などの武蔵平一揆が反乱を起こし,これに呼応して宇都宮氏綱も蜂起した。このため関東管領上杉憲顕は宇都宮氏を攻撃し,上杉勢は応安元年8月29日宇都宮氏の勢力下にあった当地の贄木城を攻め落としている。下って,戦国期には,天文8年と推定される10月18日の小山高朝書状に「自当口も去十四宮中・宿
・贄木尽打散候」と見え,小山高朝が当地を攻撃しており(白川文書/県史中世3),天正13年12月には小田原北条氏の軍勢が当地に在陣している(同前)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7280221 |