東真壁郡(中世)

鎌倉期~戦国期に見える郡名古代の芳賀郡は,平安末期に郡の南部が中村荘・大内荘・長沼荘として荘園化し,北部には氏家郡が成立し,分離した中世に東真壁郡として坂井郷・小井戸郷・鮎田郷・神江郷・藤和郷(茂木【もてぎ】町),芳士土・手樋越(芳賀町),乙連・中里(真岡【もおか】市),益子【ましこ】郷・大羽(益子町)などが史料に見え,これらは古代の芳賀郡のうち荘園化した地域と氏家郡を除いた地域にほぼ重なることから,中世に芳賀郡は東真壁郡と称されたことが知られる東真壁郡の郡域は,現在の芳賀町・市貝町・茂木町・益子町の大部分と宇都宮市・真岡市の各一部を含むと推定される芳賀郡が東真壁郡と改称した時期は未詳であるが,室町期と推定される年月日未詳の久我家領目録に「下野国 長沼庄 東真壁」と記されていることから,平安末期までに東真壁は荘園として立荘された可能性があり,これが芳賀郡から東真壁郡への改称の継起となったとも思われるが,詳細は不明(久我家文書/県史中世3)郡名は,「和名抄」に芳賀郡十四郷の1つとして記載されている真壁郷に由来すると思われ,その際河内郡にも真壁郷があることから,これと区別するために東真壁としたとも考えられる承久4年2月21日の茂木知基譲状に「下野国東真壁郡内五箇村〈鮎田 神江⊏藤和 坂⊏
〉」と見え(茂木文書/県史中世2),この5か村とは鮎田・神江・小井土・藤和・坂井の各村と推定される建長8年3月15日茂木知宣は子の知盛に「下野国東真壁郡内五箇郷内四箇郷」を譲渡した(同前)正嘉2年12月2日,鎌倉幕府は茂木知盛に「下野国東真壁郡内四箇郷」を安堵しており,東真壁郡は幕府からも認められた公的な郡であった(同前)鮎田などの5か郷は西茂木に属すものであり,鎌倉末期以降の茂木氏の譲状には東真壁郡に代わって茂木荘・茂木郡などと記され,南北朝期からは東茂木保内の5か郷も含めて茂木氏に伝領された(同前)益子町西明寺旧蔵の梵鐘銘に「嘉暦戊辰三月廿一日 下野国真壁郡益子郷」とあり,芳賀町芳志戸の大島家所蔵の鰐口に「敬白奉懸熊野三所権現鰐口 下州宇都宮東真壁芳士土手樋越」「嘉慶二年戊辰八月十八施主妙円尼敬白」と見える(とちぎの文化財下)東真壁郡には郡司系豪族として紀・清両党を名乗る益子氏・芳賀氏が勢力を張り,両氏は宇都宮氏と姻戚関係を結び,中世を通じて宇都宮氏と深い関係にあった南北朝期,延元4年2月26日春日顕時は下野に出陣し,翌27日八木岡城を落とし,益子城を奪取した宇都宮勢は宇都宮貞綱の拠る上三川【かみのかわ】城と芳賀氏支流大内氏の拠る箕輪城を放棄し,3月には芳賀高貞が討死している春日顕時はその後も下野に軍勢を進め,興国元年8月には石下城を攻略し,東真壁郡内の10余郷を西明寺城の軍勢にゆだねている(結城文書/県史中世3)真岡市飯貝の熊野神社所蔵の室町期と推定される大般若経写経奥書(485巻)に「下野国宇都宮東真壁庄乙連中里」と見え,東真壁荘は東真壁郡の別称と推定される(真岡市史)室町期から戦国期にかけても当郡域は益子氏・芳賀氏の勢力下にあった室町後期と推定される年未詳8月19日の足利成氏充行状写によれば,成氏は那須資持に「東真壁郡内〈自絹河限東〉」を充行っている(那須文書/県史中世2)また,芳賀町西水沼の常珍寺蔵の慈恵大師像台座墨書銘に「下野州宇都宮東真壁下水沼常珍寺 願主良快権小僧都勧進沙門良秀 嘉吉元年辛酉十二月三日仏師宇都宮住人少弐法眼」とあり,益子町大羽の地蔵院蔵の永禄11年の大曼荼羅軸墨書銘に「下野国宇都宮東真壁郡大羽山」と見えるなお,江戸期にも呼称は残った慶長17年8月6日の関東八州真言宗諸寺連判留書案に「〈下野東真壁郡増子霜月廿一日〉観音寺」と見える(醐醍寺文書/県史中世4)このほかに,上延生村の元和6年の検地帳に「下野国真壁郡之内御検地御縄帳」(芳賀町塩田家文書),田野辺村の承応4年の検地帳に「下野国真壁那須庄千本領田野辺御検地帳」(市貝町大畑家文書),日光二荒山神社宝物館蔵の太刀奉納銘に「下野国真壁郡茂木高岡村 桜井五郎右衛門」,手彦子村の寛文12年の検地帳に「下野国真壁郡那須領手彦子村検地水帳」(芳賀町大島家文書)などと見え,江戸期に東真壁郡は真壁郡と称されているまた,寛文5年7月11日の円通寺宛て徳川家綱朱印状写に「円通寺領,下野国真壁郡大沢村之内六拾石事,任先規寄附之訖」と見える(寛文朱印留)これ以前の円通寺宛の朱印状にも同様な文言が記載されていたと推定され,真壁郡は江戸幕府からも認められた郡名であった江戸初期の真壁郡は,ほぼ江戸期の芳賀郡にあたるものと思われる江戸初期,東真壁郡は真壁郡と改称され,さらに寛文4年に真壁郡は芳賀郡と改称され,郡名は消滅したとも考えられるが,詳細は不明

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7280474 |