皆河荘(中世)

鎌倉期~戦国期に見える荘園名。都賀郡のうち。延応元年12月25日の四条天皇宣旨写に「下野国皆河庄」と見え(門葉記/県史中世4),皆河荘は順徳院の子である大谷姫宮家領であったが,嘉禄年間に二品親王家に譲進され,さらにその付属状により無品親王門跡に譲られている。「尊卑分脈」によると,長沼宗政の孫宗員に皆河の姓が冠せられ,弟時村には筥室の姓が冠せられている(県史中世4)。現在残る長沼氏の譲状に皆河荘の名は全く記載されていないが,宗員は皆河氏を称したと考えられ,当荘を領有した可能性がある。宗員の子孫はのちに断絶したという。南北朝期,建武3年足利尊氏は上杉憲顕に皆河荘内の闕所を預置き,下って応永3年7月23日の管領斯波義将施行状によれば,応永2年7月24日皆河荘半分が室町幕府から上杉憲定に安堵されているから(上杉家文書/県史中世3),当荘は上杉氏の影響下にあったと思われる。一方,南朝方は延元元年4月8日,北畠親房の陸奥国府が大河戸下総権守に皆川荘を与え(朴沢文書/宮城県史),延元3年9月5日にも親房が小山政景に皆河荘息居郷を充行っているが(光明寺旧記/県史中世4),現実に知行しえたか明らかでない。その後,15世紀前半に長沼氏は皆川城を築き,この地を本拠として皆川氏を称しており,室町期には皆川氏が当荘の一部を確保していたと思われる。室町後期と推定される年未詳4月19日の足利成氏軍勢催促状によれば,古河公方足利成氏は白川直朝に出陣を促し,皆河荘の支配を認めている(白川文書/県史中世3)。戦国期には,皆川氏は皆川城に拠り一大勢力となり,当荘は皆川氏の支配下に置かれた。当荘内として確認されるのは息居郷のみである。「長沼系図」に「皆川庄筥森郷」と見えるが,皆川城と箱森の間にある泉川郷は中泉荘内となっている(光明寺旧記/県史中世4)。現在の栃木市皆川城内町を中心として,同市柏倉町・小野口町・志鳥町など栃木市西南部に比定される。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7280853 |