横田(中世)

南北朝期から見える地名河内郡のうち建武3年12月の茂木知貞軍忠状に「九月廿一日宇都宮横田原合戦」と見え,翌建武4年8月の野本鶴寿丸軍忠状にも「去年〈建武三〉十一月三日,横田毛原合戦」と見える(茂木文書/県史中世2,熊谷家文書/県史中世4)応安元年には平一揆や宇都宮氏が峰起,同年9月の島津弥三郎代田村忠長軍忠状・市河頼房代難波基房軍忠状によれば,島津氏・市河氏らの軍勢は8月の「横田要害」攻撃,続く宇都宮城攻撃などで,上杉憲春・朝房の軍に加わっている(嶋津文書・市河文書/県史中世3)なお,「義経記」巻2「義経陵が館焼き給ふ事」の段には,「かくて行くには,下野の横山の原,室の八嶋,しのゝ川(白河),関山に入を付けられて叶ふまじと思召して,墨田河辺を馬に任せて歩ませ給ひける程に」とあるこの「横山の原」については,「義経物語」諸本に「よこたのはら」「よこ田のはら」「よこた山のはら」とあり,当地名の誤りかとされている(古典文学大系頭注)現在の宇都宮市東横田町・上横田町付近に比定される

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7281152 |