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楢原(近代)


 明治22年~現在の上野村の大字名。明治24年の戸数145,人口は男367・女327,学校1・水車場2。昭和12年郵便局は白井の上り口へ新築移転。住居附を含む西部地区の集配を担当,同60年中里郵便局に統合され,無集配局となる。明治21年新羽管区から分離して白井に駐在した楢原駐在所は大正4年当地に新築移転,昭和36年新羽駐在所に統合されて廃止。明治期後半に乙父小学校が上野村第二尋常小学校,楢原小学校が同第三尋常小学校となる。明治43年には砥根平に分教場ができる。大正10年乙父から楢原へ学校が移転し,同11年に上野西尋常高等小学校となり,砥根平に代わって三岐に分教場ができ,昭和18年には奥地の本谷に分教場が設置された。戦後分校もなくなり,児童生徒数の減少から小学校が統合され同57年新羽に上野小学校が設置された。昭和56年中学校が統合され,中越に上野中学校が新築された。また昭和期に入り,高崎営林署および与志本興業により奥地の山林開発が行われ,木材の伐採・搬出,薪炭の生産,植林などに従事する人が他地域から奥地へ住み込むようになった。本谷・浜平・中ノ沢・北沢・三岐・坂下・黒川では戦後の一時期,人口が増加し,特に三岐は木材などの集散地・基地として営林署の事業所,与志本興業の事務所,商店などもでき活気があった。坂下には営林署従業員の住宅ができ,現在では通称住宅が地名的に扱われている。北沢には,戦後,炭焼きのため15軒ほどの民家ができたが,昭和30年代の後半には無住となった。神流川の源流近い本谷には,小・中学校の分校があり,軌道が敷設されて昭和30年代の後半まで木材が搬出された。現在は軌道跡が道路になっている。昭和60年8月日航機事故による機体の破片は現場からヘリコプターによって本谷分校跡地まで運ばれ,そこでトラックに積み,東京へ搬出された。昭和29年群馬交響楽団をモデルにした映画「ここに泉あり」のロケ地となった。同34年,定期バスの上信バスが地内砥根平まで延長,運行開始。同43年地内塩ノ沢に村営国民宿舎塩ノ沢温泉やまびこ荘を建設し営業を開始。その後,増改築を加えるとともに道路整備が進み,塩ノ沢峠越えも便利になり,みかぼスーパー林道も開通,都会から訪れる人が増えている。昭和45年国重文に指定された黒沢家は,同54年上野村が敷地とともに買い上げ同年住宅修理,復元に着手し,国・県からの補助金をもとに同57年国重文旧黒沢家住宅として指定された。昭和13年上野村亀甲石産地(堂所・明ケ沢)は国天然記念物に,同47年白井関跡のイチイ,同50年神行阿弥陀堂の大サワラは県天然記念物に指定された。国天然記念物のカモシカ・ヤマネの生息地でもある。昭和60年現在国道299号の建設が砥根平までは進行している。同年8月の日航機墜落事故現場となった当地は,今後犠牲者の納骨堂を中越に建設,事故現場への道路整備,慰霊碑の建立など今後の課題は大きい。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7283929