100辞書・辞典一括検索

JLogos

17

西横手村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。群馬郡のうち。元禄11年横手村が西横手村と宿横手村に分村して成立。はじめ幕府領,旗本諏訪氏領を経て,元禄11年分村後に高崎藩領となり,宝永7年幕府領,元文4年から高崎藩領(郡村誌)。「寛文郷帳」「元禄郷帳」ではともに横手村のうち,「天保郷帳」で村名が見え,村高150石余,「旧高旧領」も同高。元禄11年の分村以前から西横手村と宿横手村としての行政は別になっており,慶安4年の西横手分水帳によれば,旗本諏訪氏領,屋敷筆数27,所有者23,その反別1町3反余,田方14町7反余うち上田8反余・中田2町2反余・下田6町6反余・下々田4町6反余,畑方14町7反余うち上畑4町4反余・中畑2町7反余・下畑5町6反余・下々畑2町余,そのほかに境内6反余うち西福寺領3反余・善勝寺領2反余・般若寺領7畝余(滝川村誌)。地内を秩父道・江戸道および三国通り佐渡奉行街道が走る。当村から萩原村へ出る三差路のところに自然石の道標があり,「これよりみぎちちぶみち,これよりひだり江戸みち うしろきどみち」と刻まれている。用水は滝川を使用。天明3年浅間山大爆発では,田方のうち火石・泥による潰地6畝,焼石積り作物皆無16町4反余,畑方のうち火石・泥による潰地2町4反余,焼石積り作物皆無15町3反余,家数42うち火石・泥押し40軒などの被害をうけた(同前)。このとき泥で埋まった善勝寺を檀家総出で掘り出したという言い伝えが残っている。秀関山善勝寺は曹洞宗の寺院で,天正4年下野国都賀郡富田村大中寺第8世白庵秀関の開基とされるが,由緒は不詳。同寺では延享5年山号をめぐって紛争が起こり,寺社奉行へ訴えを起こしている。寺社奉行の裁判は,宝永6年まで使用の八幡山,宝永7年から使用の覚王山のいずれも認めず,開基秀関の名をとり秀関山とした。現在山門に残る山号額「秀関山」は下総国佐倉常胤寺一梁和尚の筆になるものである。また山門は天明3年浅間大爆発により被害のあった寺へ萩原村の井田利右衛門が寄進したものの1つである。寺に伝わる6対の花鳥屏風も井田氏の寄進で,屏風絵は甘楽【かんら】郡出身の狩野派画家法橋探雲70歳のときのものである。なお同寺は昭和25年本堂の老朽化と利根川川瀬の欠落による危険をさけるため,現在地へ移築・改修が行われた(同前)。神社は諏訪社・富士浅間社。幕末の改革組合村高帳では,玉村宿寄場組合に属し,高150石余,家数29。明治4年前橋県,群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県,同11年群馬県西群馬郡に所属。明治4年諏訪社の西にあった盤若寺が,翌5年西福寺が排仏毀釈により廃寺となった。西福寺はその跡にのこる宝篋印塔(市史跡)に「明徳元年」と記されていること,古く下滝村慈眼寺の隠居寺といわれていることから,慈眼寺中興の祖乗弘大徳(明徳4年入寂)の隠居寺として建立されたものと考えられている(同前)。子女ははじめ明治6年下滝村慈眼寺に開校した多喜小学校へ,同11年からは西福寺跡に設立された与児手小学校へ通学した。なお同校は教員1,生徒数男79・女19の計98であった(滝川小百年史)。同22年滝川村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7284036