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坊新田町(近世〜近代)


江戸期~現在の町名江戸期は沼田城下町の1町沼田城の南,大手門の正門前通り沿いに位置する沼田城下の南端部を構成する町の1つで,北は中町,西は鍛冶町,東は馬喰町と接する天和2年に割り立てられた(沼田町史)町名は,寺院区域として新しく開かれた町の意という寺院には天台宗金剛院・浄土宗了源寺・日蓮宗妙光寺・天台宗安楽寺があるなお金剛院の僧江舟は弘化元年より綾戸弁財天参詣隧道開削工事を始め,同3年に完成させた(年表ぐんま)江戸期,沼田藩主が参勤交代で江戸へ上る際には,大手門から下之町を走る馬出し通りを下り,坊新田町を通行した天和2年の沼田町図(矢島家文書)によれば,戸数37,地内南端に木戸が設けられている明治6年妙光寺に町人子弟のための181番坊新田小学校が設置され,また大正14年同寺境内に沼田最初の沼田幼稚園が開設された大正7年地内に沼田劇場ができ,その後沼田映画劇場,沼田東宝劇場と改称されたが,昭和45年廃館となった坊新田町本通りを中心に須賀神社通り・立花通り・木戸下通り・旭通り・錦通り・あけぼの通りなどの支道があるなかでもあけぼの通りは昭和33年まで八幡小路と称し,大正年間頃には各種飲食業ができ,歓楽街として殷賑を極めた昭和17年東部第41部隊が沼田に駐屯,将校住宅の建設が地内南部において行われ,町営住宅として貸与されたこれが沼田の公営住宅の最初で,名称を公募した結果,旭ケ丘に決まった坊新田町の町名は,明治22年沼田町,昭和29年から沼田市の通称町名として存続戦後は旭ケ丘も一般市民に開放され,沼田の新興住宅地として急激な人口増加をみた戸数は,明治23年65・大正7年167・昭和8年343・同27年539・同44年710・同54年580




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7284498