殖竹郷(中世)

室町期に見える郷名足立【あだち】郡のうち県東部,荒川と鴨川との間にはさまれた低地と自然堤防上に位置する応永4年7月20日,鎌倉公方足利氏満は足立大炊助の闕所地である「武蔵国足立郡殖竹郷」などを鎌倉郡小坪の替わりとして円覚寺塔頭の黄梅院に寄進しているこれをうけて武蔵の守護上杉朝宗は同日付で,守護代千坂越前守に宛てて寄進状の旨を守り黄梅院雑掌に打渡すべしとの施行状を出し,千坂は12月13日,その打渡状を出したまた享徳6年4月13日の古河公方足利成氏知行注文には「同(武蔵)州 殖竹郷」とあり,当郷が引続き黄梅院の知行地であったことがわかる(黄梅院文書)当地域は従来植竹町の周辺と考えられていたが,近年は足立氏の旧領ということを考えて「殖絶【うえた】」,即ち近世の植田谷本村を中心とした地をさすのではないかといわれている

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7285626 |