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片柳村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。足立郡見沼領のうち。古くは太田荘に属したという。はじめ幕府領,文禄元年旗本大岡氏の知行,正保年間以降幕府領,寛文元年一部は旗本伏見氏の知行(諸家譜)。幕末は幕府領と旗本伏見氏の知行。検地は元禄10年,新田検地は享保16年。村高は「田園簿」で263石余,うち田55石余・畑208石余。元禄期までに笹丸村が分村し,「元禄郷帳」で140石余,享保16年検地高入れされた片柳村新田約500石は当村の持添で幕府領。寛政8年の村高は656石余(都築文書),以後変化なし。村の規模は東西13町・南北10町。化政期の家数126軒。用水は東縁用水から引水する加田屋分水を利用したが「水旱共に患あり」という状態であった。加田屋分水5か村組合と中悪水28か村組合に所属。特産物は長芋と柿渋でともに江戸へ出荷。柿渋は赤山渋とよばれ,赤山領と南部領を中心とした小規模特産物で特に珍重され,天保3年には16人の渋屋渡世者がいた(大宮市史)。紀伊徳川家の御鷹場支配をうけ,鳥見役会田平左衛門預り25か村の1つで,寛政11年土呂【とろ】村野原の猪鹿狩りに23人,嘉永2年の下総【しもうさ】国小金原の猪鹿狩りに9人の勢子人足を徴発された。助郷は日光御成街道大門【だいもん】宿に出役。寛保・宝暦年間には中山道大宮宿への代助郷を負担。文政11年から大門宿寄場34か村組合に所属,名主五郎左衛門は小惣代をつとめた。鎮守は根木王にある祥巌寺持の十二所権現社,同社は明治3年熊野社と改称。ほかに神社は氷川社・稲荷社・弁天社など11社。寺院は曹洞宗万年寺・祥巌寺。万年寺は永正6年に開山され,天正19年20石の御朱印を賜わり,慶長19年荒蕪地5石分の替地を隣村染谷【そめや】村の内で受領,寛永6年見沼溜井造成に伴う水没地11石余の替地を高畑【たかばたけ】村で受けている。幕末から明治にかけて25世大勇竜猛により寺子屋が開かれた。また幕末期に名主をつとめた守屋藤内は正風遠州流の師匠で,巌松斎法眼一鵰と号し,日光御成街道筋と中山道筋に多くの門弟を持ち生花活動を行った。高札場は村の中央と北部。小名は沖郷・禰宜谷・西山・弁天前など。明治4年埼玉県,同12年北足立郡に所属。明治9年の戸数132・人口752,馬26,耕作船1,荷車15。山村・辻村のうちに飛地があった。祥巌寺跡を仮用し,明治7年片柳・山・西山村新田・加田屋新田4か村連合の公立学校(片柳学校)を設置,生徒数76。物産は鶏・鶏卵・米・大麦・小麦・大豆・小豆・甘藷・ショウガ・長芋などで,その多くを出荷。同22年片柳村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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