土手宿村(近世)

江戸期~明治22年の村名。足立【あだち】郡大宮領のうち。古くは高鼻郷に属したという。文禄3年大宮宿から分村。旗本疋田氏の知行,元禄年間以降に開かれた寿能原【じゆのうはら】新田は幕府領。検地は文禄元年,新田検地は元禄3・17年と宝暦11年。村高は「田園簿」では土手村として100石,うち田2町余・畑19町余,「元禄郷帳」は大宮土手宿として103石余,「天保郷帳」104石余。のち14石余が見沼溜井造成の影響を受けて水没してしまった。承応3年犠牲田分は別所村(現さいたま市)に替地となる。村の規模は東西3町・南北5町余。化政期の家数26軒で,中山道沿いに軒を連ねていた。紀伊徳川家の御鷹場支配を受け,鳥見役北沢甚之丞預り28か村の1つで,寛政11年土呂【とろ】村野原の猪鹿狩りに勢子人足を徴発され,天保年間には鷹匠や鳥見の廻村費用を分担しあうため上天沼【かみあまぬま】村など5か村と小組合を結成していた。助郷は中山道大宮宿に出役。文政11年より大宮宿寄場55か村組合に所属。世襲名主小島四郎兵衛は寄場大惣代をつとめた。江戸期の作物は五穀のほか里芋・長芋・ゴボウ・紅花など。神社は土手富稲荷と多子稲荷。高札場は村の中央。小名は星山・寿能原。明治4年埼玉県に所属。同5年の職業調べによると酒小売2・大工1・酒造1・洗張職1・下駄職1軒があった。主要道路は中山道と原市【はらいち】道。明治9年の戸数45・人口235,馬2,荷車19。大宮宿・高鼻村・本郷村の間に飛地があった。物産は米・大麦・大豆・甘藷などで,甘藷を出荷。明治12年北足立郡に所属。同22年大宮町の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7288890 |




