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佐坪郷(中世)


 南北朝期~室町期に見える郷名。上総国埴生郡のうち。鎌倉鶴岡八幡宮領。佐坪村とも見える。正平7年正月8日の足利尊氏御教書写(喜連川家御書案留書/神奈川県史資料編3)に「鶴岡八幡宮領上総国埴生郡一野・佐坪両村」とあるのが初見で,尊氏は上総守護千葉氏胤に当郷や一野村における軍勢・甲乙人の押妨を停止し,社家雑掌の支配を保持すべき旨を命じている。当郷と一野村は建武2年9月28日に足利尊氏が,八幡宮領に寄進,その田地は供僧給田として同4年および暦応2年3月に鶴岡二十五坊の供僧に分田され(鎌倉市史社寺編),各坊は検地を行い,分田帳を作成した(二十五坊のうち乗蓮坊の名が現在も小字名で残る)。また,25人供僧に対して,佐坪・一野村の百姓(名主クラスの僧名百姓)がそれぞれ25人によって構成されていることなどから,各坊ごとにかなり整った百姓支配が行われていたことが想定される。応永年間,当郷には年貢のほか,夏麦畠反別に50文,また社役として盆料が賦課されていたが,応永4年6月の市原八幡宮造営料棟別銭は免除されたことが見える。そして,在地で実際にこれらの年貢・社役などを徴収し,また分田を正当な耕作者に打渡すなどの職務を行うために,当郷には佐坪政所が置かれた(鶴岡事書日記)。一方,同じ頃に当郷や一野村では八幡宮の支配に対して農民が強訴・逃散や年貢対捍などを繰り返しており,その様子は「鶴岡事書日記」に詳しい。そうした農民の抵抗に対して社家側は,応永2年閏7月には上使として綿貫上総房継玄・平川祐玄を遣わし,年貢などを皆納させるとともに,東条氏・茗荷沢氏・小蓋氏といった近隣の領主に対し,上使を補佐し,百姓の強訴・逃散を糺明するよう要請している。社家は社領支配について国人領主の力を導入したようで,応永4年正月,佐坪郷政所職(佐坪・一野代官職)に在地領主と思われる平田彦六実次を補任しており,また応永7年当時の政所岩名手入道も在地領主と思われる。なお,政所には給分として田1町2反余,畠1町大と政所屋敷が与えられた(鶴岡事書日記)。当郷内祖母谷には西光寺阿弥陀堂が,また同じく郷内に白山神宮寺などが存在し,その別当職等を八幡宮が補任していた。また郷の中心に存在する八幡神社は,社家の支配に対応して勧請されたものである。現地の荘園支配の中核的機能をはたしたとみられている。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7293905