下河辺荘(中世)

平安末期から見える荘園名下総国葛飾郡のうち久安2年8月10日付の平常胤寄進状案(櫟木文書/平遺2586)に相馬御厨の四至として「西限下川辺境并木崎廻谷」とあるのが初見「吾妻鏡」治承4年5月10日条には「下河辺庄司行平」と見え,これ以前,下河辺荘が成立していたことがわかる文治2年2月日付関東知行国乃貢未済荘々注文(吾妻鏡文治2年3月12日条)および同4年5月12日付後白河法皇院宣(吾妻鏡文治4年6月4日条)に「八条院領」と記されており,鳥羽院皇女八条院に伝えられているその後,当荘は藤原良輔に伝領されたことが,建保6年以前の左大臣藤原良輔遺領目録(門葉記/鎌遺2409)に「下総国下川辺庄年貢三十貫〈為地頭請所沙汰之云々〉」とある点から推察できるだが,その後は再び他の八条院領とともに皇室領として相伝され,亀山法皇を経て永嘉門院暉子に譲与されたことが嘉元4年6月12日付の永嘉門院暉子内親王使家知申状并御領目録(竹内文平氏所蔵文書/神奈川県史資料編2)からわかるまた,開発領主である下河辺氏は承久の乱を契機として,下河辺氏は北条氏の被官となり,下河辺荘の支配も北条氏に移っていった「吾妻鏡」建長5年8月29日条では,当荘の堤を築くべき奉行人を特に幕府が任命しているまた,文永12年4月27日付の金沢実時譲状(市島謙吉氏所蔵文書/鎌遺11877)には北条氏一族金沢実時が当荘内前林・河妻両郷と平野村を,妻女と思われる藤原氏に一期分として譲与したことが見えるそののち永仁2年正月日付の称名寺領下河辺荘村々実検目録によれば,永仁元年以前,下河辺荘下方内の村々が称名寺に寄進されたことがわかるまた嘉元2年の称名寺々用配分状には当荘内河辺・野方両郷が金沢氏に支配されていたこと,さらに同年と思われる称名寺々用配分置文にも荘内佐ケ尾郷が佐ケ尾殿に,同じく志摩・大野両郷が故竹岸殿に,前林・河妻両郷が谷殿にそれぞれ支配されていたことが記されている文保2年正月16日付の尼慈性寺領寄進状案によれば,荘内河妻郷の田2町が前林郷内戒光寺に寄進されており,さらに元亨3年正月10日および元亨3年と思われる某寄進状などからも,某が新田1町あるいは屋敷1所を同寺に寄進したことが知られる元亨3年の上野国村上住人尼常阿代勝智訴状案によれば,当荘内築地郷の地頭(代)職は金沢貞顕の家人倉栖兼雄であり,文保元年12月,当郷を6か年を限って200貫文で上野国の尼常阿に売却したというところが兼雄は売却したにもかかわらず押領したため,常阿は代官をもって幕府に訴えている正慶元年2月16日,金沢貞将が荘内赤岩郷を称名寺に寄進したことは同日付の金沢貞将書状からわかる(金沢文庫文書/神奈川県史資料編2)したがって,鎌倉後期,皇室を本家,称名寺を領家として,地頭金沢氏一族が当荘を支配していたのであるなお,鎌倉初期,建久8年の香取社式年造替遷宮の際,当荘は300石の配分をうけたが,勤仕しなかったという(香取旧大禰宜家文書/鎌遺960)元弘3年5月,鎌倉幕府が崩壊すると,称名寺の所領も建武政府に没収されたが,後醍醐天皇の勅願寺という理由からすべての寺領が安堵されたまた,金沢氏の地頭職は分化され,荘内春日部郷地頭職は延元元年3月22日付の後醍醐天皇綸旨(武州文書/大日料)によって春日部重行の知行が安堵され,さらに康暦3年2月5日付の某充行状(青木氏蒐集文書/栃木県史中世4)から,荘内栗指郷一分が嶋津政忠に給与されたことがわかるしかし,当荘地頭職は大部分が足利氏に移ったらしく,永徳2年2月23日,荘内高柳郷地頭職半分が鶴岡八幡宮に寄進されたことが鎌倉公方足利氏満寄進状(神田孝平氏旧蔵文書/神奈川県史資料編3)によって確認されるところで頼印大僧正行状絵詞(続群9上)によると,足利氏満の依頼をうけた頼印が,当荘の帰属について祈祷したところ,3代将軍足利義満は料所として氏満に当荘を与えたというこれが事実とすれば高柳郷の鶴岡八幡宮寄進以前と思われるまた観応年間のものと思われる小山氏所領注文案に「下河辺〈付新方〉」とあり(小山文書/神奈川県史資料編3),小山氏が関係していたことがわかるまた至徳4年5月1日付の大禰宜長房譲状(旧大禰宜家文書/県史料香取)によれば,香取社大禰宜大中臣長房は「しもかわへのうち,ひこなのせき」を嫡子幸房に相伝しているしかし,応永26年9月15日付の鎌倉御所持氏御教書(鶴岡八幡宮文書/神奈川県史資料編3)には当荘彦名河関は鶴岡八幡宮領として諸役が持氏によって免除されているから,同関務はその支配が移ったことになる応永30年5月28日付の足利持氏御判御教書(島津文書/広島県史資料編4)によれば小曽戸直忠は当荘内河辺方中押郷の年貢のうち20貫文を給与されている文明8年6月24日,足利成氏の家臣簗田持助が当荘桜井郷内の東昌寺に鐘を寄進したことも知られる(古河市史)さらに天正2年12月2日付の喜連川家料所記(喜連川文書/栃木県史中世2)は古河公方の料所59か所を記載したものであるが,河妻・河辺・三ケ尾・野方などが当荘に属していたことは資料的に明らかである以上の事実は足利氏満に与えられた当荘は,鎌倉公方,後には古河公方の料所として代々相続されていったものと思われる享徳4年,鎌倉を追われた公方成氏が古河に移ったのも,古河を含む下河辺荘が鎌倉公方の所領であったからであろうまた東京都豊島区西巣鴨尾板憲蔵氏蔵天文5年5月28日付鰐口銘文に「下総州下河辺庄下井坂郷」とある(日本金石文の研究)当荘の荘域は旧利根川周辺であり,茨城県猿島【さしま】郡総和町前林・大野,同郡五霞村河妻・桜井を東端とし,西は埼玉県春日部市,北葛飾郡幸手町平野・栗橋町高柳,北端は茨城県古河市,南端は野田市佐ケ尾とする細長い沖積平野上の荘園である

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7294167 |