白井荘(中世)

鎌倉期から見える荘園名下総国のうち下総台地から印旛【いんば】沼へ北流する鹿島川上流域に展開する「吾妻鏡」文治2年3月12日条所収の同年2月日付の関東御知行国乃貢未済荘々目録に「下総国……〈延暦寺〉白井荘」とあるのが初見延暦寺領であったまた承久3年6月10日の尊長所領譲状案(華頂要略55所収寺領目録/鎌遺2754)にも「日吉社領下総白井庄」とあり,延暦寺の鎮守日吉大社領になったことがわかる一方,建久年間の香取神宮遷宮用途注進状(旧大禰宜家文書/県史料香取)には,当荘宛に作料80石,同加納勝田宛に60石がおのおの賦課されたが,ともに在地領主に対捍され未納であった下って永享6年6月5日の沙弥聖喜(芦名盛政)所領所職譲状写(楓軒文書纂所収石川文書/神奈川県史資料編3)によると,室町期,当荘は陸奥国会津の三浦芦名氏の所領の1つであったが,永享6年当時,すでに当荘は相模国三浦郡芦名郷などとともに不知行地となり,係争中の地であった建長3年頃の某陳状(中山法華経寺聖教裏文書/市川市史5)には,当荘住人為依なる者が鎌倉幕府の奉行人右京進のもとで奉公しており,さらに為依はこれら奉行人を通じて訴訟を起こしたことが見えるまた,貞治2年6月,当荘内の塩古六所宮に大般若経が修理・奉納された同経奥書に,200年来中絶の同経を当荘塩古郷内の内田弥勒寺承隆律師が300余巻を書写,これを澄秀ら当荘内世田村栄楽寺の密教修学の僧らが継承,同寺のほかに岡田薬師堂,東寿院,高柳,用草など,当荘内の各所で書写に従事したと見える(神宮寺文書/県史料諸家)また文明17年卯月5日の日光坊昌範置文(明通寺文書/小浜市史社寺文書編)によると,若狭国明通寺の昌範は信濃国守護代和久日峯の孫であり,母が千葉氏一族の白井氏であったため,当荘で生まれ,千葉荘で育ったと見える下って天正19年の検地帳(用草区有文書/県史料諸家)などに「白井庄持草村」等の記載が見える比定地については,先の大般若経奥書に見える世田(現勢田)・岡田・用草はいずれも現在の八街【やちまた】市内の大字,内田・高柳は現在佐倉市内にあたる旧弥富村の小字として見えるまた塩古は,江戸期の「各村級分」に七曲村・西御門村・稲葉村・根古谷村の各肩書に「塩古七曲村」の様に見え,現在も佐倉市西御門・七曲から八街市根古谷・岡田一帯の地域呼称として残る「地理志料」は印旛郡白井町,「地名辞書」は香取郡小見川町白井に比定するが従い難く,現在の八街市から佐倉市南部にかけての一帯に比定されるあるいはまた,現在千葉市の北谷津・高根・多部田・佐和・川井・五十土【いかづち】・野呂・和泉は旧白井村と称したので,荘域はこの付近にまで及んだかとも考えられる

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7294316 |