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望陀郡


当郡域は江戸初期の再編後も市原郡との間に移動があったが,元禄年間までには確定したと思われる。天正18年徳川家康は久留里に3万石で大須賀忠政を配置。その後郡内には久留里藩・貝淵藩(のち請西藩)が成立,請西藩は戊辰戦争で新政府に抵抗,唯一の藩領没収による除封廃藩となっている。また,明治初年には一時,桜井藩も存在した。村数・石高は,文禄3年「石高覚帳」では124か村・4万8,490石余,「元禄郷帳」193か村・5万4,087石余,「天保郷帳」194か村・5万9,935石余,「旧高旧領」194か村(189か村・5か所)・5万9,817石余。「上総国村高帳」では家数8,888,慶応年間の「上総国石高并神社寺院朱印帳」(県史料上総)では戸数8,888。郡内の諸藩領は,「寛文朱印留」では久留里藩78か村・1万7,380石余,飯野藩4か村・791石余,佐貫藩3か村・1,083石余,高岡藩8か村・443石余,常陸玉取藩1町(木佐良津町)のうち377石余と大名久世広之領1か村・620石余,「旧高旧領」では請西藩13か村・3,447石余,久留里藩39か村・1万6,237石余,飯野藩2か村・226石余,佐貫藩1か村・257石余,鶴牧藩1か村・285石余,武蔵岩槻藩1か村・60石余,上野前橋藩73か村・1万1,244石余。当郡ではこれら諸藩領のほか幕府領・旗本領・与力給知が混在し,その割合も高い。西の海岸沿いの村々は漁業を営んだが,中でも久津間・中島・瓜倉村では馬鹿貝を採取し,天保10年には議定証文を取り交わしており,またこれら3村および川尻村・奈良輪村の5か村では馬鹿貝の発生していない海浜で地引網漁業が行われたことが知られる(県史料上総)。江戸に木更津河岸を設けて往復した木更津船は,慶長19年の大坂冬の陣に水軍として参加した木更津の水夫らに安房・上総国への渡船営業などの特権を与えたことに由来するといい(同前),隅田川付近で木更津船に会えば,他船はこれを避けて通ったといわれる程の威を誇った(木更津市史)。「房総志料」(房総叢書)によれば,当郡は6万石の地で,「土地広く,民家も賤しからず。美田,他郡に勝れる」という。戊辰戦争に際しては,請西藩のほか,幕府の撒兵奉行福田道直の率いる撒兵隊が慶応4年には木更津に入り,真里谷村真如寺へ集結するなどして新政府軍と抗戦(木更津市史),郡内は騒然とした。廃藩置県を経て明治4年11月木更津県,同6年からは千葉県に所属。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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