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中豊沢村(近世)


江戸期~明治7年の村名もとは中渋谷村のうち元禄10年検地で,中渋谷村の小物成場を1村とした幕府領村高は,「元禄郷帳」では119石余,「天保郷帳」では120石余助郷は東海道品川宿(品川区)加助郷,幕末には免除され和泉【いずみ】新田の塩硝蔵警固勤役にあてられた(渋谷区史)化政期の村の状況は,家数19軒,渋谷村との入会地が所々に散在,佐竹壱岐守抱屋敷があった小名は神泉谷・鉢山・大山・宇田川・猿楽塚【さるがくづか】などがあり,猿楽塚は高さ1丈の塚で源頼朝が猿楽を催したのち道具を埋めた所と伝える村内金王八幡社は,明応9年作と伝える金王八幡神社社記(明応9年)によれば,寛治6年源義家が後三年の役の帰途に八幡宮を勧請したもの,往古源経基が将門の乱のとき宿泊した家を寺とし,それを別当東福寺といったまた領主基家は河崎氏,その子重家のとき渋谷と改め,重家がこの社に祈願して得たのが金王丸で,義朝に仕え,また,頼朝の命で京に義経を襲ったが,逆に殺害されたといわれ,宝永元年記の東福寺鐘銘は,河崎基家が源頼義に賜った地に八幡を勧請,寛治5年義家が修理,建久2年頼朝が修復し,渋谷山常照院東福寺としたと伝える江戸期からは頼朝が金王丸に与え,憂さ忘れの桜とも呼ばれる金王桜や鎮座の松が名を知られていた当社の氏子地域は中渋谷村・善光寺門前町・宮益町・武家屋敷・青山百人組与力同心など(文政寺社書上)祭礼は8月15日(続砂子)で,みこしやねり物が出,盛況を呈した境内に,文化年間の「しばらくは花の上なる月夜かな」の芭蕉句碑がある東福寺門前は延享3年から町方支配となった明治5年東京府に所属同7年中渋谷村に合併,同年の合併伺書に戸数46・人口192とある




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7300595