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飯田郷(中世)


鎌倉期~室町期に見える郷名相模国鎌倉郡のうち治承4年の石橋山合戦に際して,大庭景親の軍中にいながら源頼朝を助けた飯田五郎家義は,当郷の在地領主だったものと思われる(吾妻鏡治承4年8月23日条)郷名の初見は永仁6年7月13日の関東下知状で,「相模国飯田郷一分地頭」とある(相模文書/県史資2‐1230)この下知状は,永福寺薬師堂供僧承忠法印代承成と当郷一分地頭飯田四郎の孫女藤原氏代小田切五郎入道浄意の相論の対象となった供米について裁許したもので,当郷内における藤原氏の知行分の公田5反については毎年1石5斗を進済することになっていたが,永仁3・4年の分は対捍し,同5年分を難渋していると承成が訴え,幕府は地頭に弁済するよう命じているなお弘安10年から正応3年までの4年間分は惣領飯田義綱が代わりに弁済していたことが知られるまた,正安元年10月27日の関東下知状によると,前述の承成と当郷地頭との間で相論が起きている(杉浦文書/同前1267)当郷の所当米は毎年180石で,延応元年9月12日の飯田能信への下知状に任せて収納は寺家の斗を用いること,直接に仏聖供僧や預承仕へ下行すべきこと,壇供餅と御節供は供米180石のうちに含めることなどが定められているまた元亨2年2月27日の関東下知状でも,文保元年以降の供米の未進について,薬師堂供僧伊予僧都厳演と当郷地頭飯田四郎女子尼玅心との間で相論が起きており,玅心は公田7町1反60歩のうち5反分の供米は惣領飯田家頼に究済したと弁じたため,未済分を弁済するよう命じられている(相模文書/同前2283)また,元徳3年8月27日の関東下知状でも当郷一分地頭飯田家頼と厳演との間で相論があり,正中2年から嘉暦2年までの未済分3石1斗を究済するよう家頼に命じたところ,その下知に従わないため,家頼の知行分は下地を中分して一方を寺家に付すよう命じている(神田孝平氏所蔵文書/同前2969)なおこれより先弘安8年2月22日の関東下知状には「渋谷庄西飯田郷内田壱町在家壱宇」と見え,右大将(源頼朝)家法華堂に寄進されており,渋谷荘内であったことが知られる(法華堂文書/同前1010)また,室町中期(15世紀末~16世紀)の成立と推定される「日蓮聖人註画讃」によると,弘安5年10月日蓮は武蔵国池上で没するが,その遺骨は10月21日池上を出て当地に宿し,身延山へ送られたという(続群9上)下って南北朝期の観応元年12月28日の善波有胤着到状写によると,足利基氏は12月25日当地を発向し愛甲【あいこう】郡飯山寺に向かっている(相文/県史資3上‐4057)「鶴岡事書日記」の応永5年6月条によると,当郷の役として鶴岡下宮の通夜壇所の畳を社家の公文所に敷設することになっていたが,当郷は完戸氏が深沢跡と混同して知行してしまい,不知行となっていたことが知られる(神道大系)同23年10月には,上杉禅秀が足利持氏に対して反乱を起こすが,翌年正月には幕府軍が飯田原を経て鎌倉にせまったため,禅秀軍の多くが寝返り,この乱は終息したこの幕府軍の中に石川幹国がおり(石川文書/県史資3上‐5506・5512),武州北白旗一揆の別府尾張入道代内村勝久は,正月10日当地に陣し,翌日鎌倉へ入ったことなどが知られる(別府文書/同前5503)「香蔵院珎祐記録」長禄4年正月5日条に「一,上宮分……小……飯田郷五十枚〈強入部不参〉」とあり,修正会の御壇供の餅の上宮分230枚のうち50枚を当郷が負担している(神道大系)また同5年3月条には「飯田郷一所在之〈彼飯田郷内一所別当之被寄者也〉」と見え,御八講・同四季講の料所になっていたことがわかる(同前)その後,戦国期の「役帳」には,小田原北条氏御家中役之衆の山中馬寄平山源太郎の所領役高として「五拾貫文 自前々無役 東郡飯田」と見え,同じく玉縄衆川上藤兵衛の所領役高として「卅八貫弐百文 東郡下飯田」とある現在の横浜市戸塚区上飯田町・下飯田町を中心とするあたりに比定される




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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