大住郡

天正18年の村数110か村中,徳川氏直轄地89か村(81%),旗本領6村,直轄地・旗本領相給14村。慶長7年頃から直轄地の旗本領化が進み,寛永10年の地方直しを画期に両者の比重は逆転。寛永10年115か村中,一円幕府領34村,一円旗本領53村,幕府領・旗本領相給28村,元禄10年115か村中,一円幕府領19村,一円旗本領79村,幕府領・旗本領相給17村,享保元年115か村中,一円幕府領17村,一円旗本領83村,幕府領・旗本領相給15村。この間下総生実藩領・小田原藩領・三河中島藩領・下野皆川藩(のち六浦藩)領・下野烏山藩領・上野前橋藩領・下総佐倉藩領の各飛地も設定され,明治元年123か村・325領中,幕府領3領,藩領45領(小田原藩19・六浦藩9・佐倉藩9・烏山藩5・生実藩3),旗本領277領となる。村数と石高は,正保3年107村・6万621石余,元禄15年127村・6万4,424石余,天保5年119村・6万4,296石余,「旧高旧領」123村・6万6,646石余。天保年間の耕地面積7,909町余,うち水田2,957町余・畑4,952町余,ほかに諸河川の流作場や見取場41町余で水田面積は相模国八郡中最高であった。検地は幕府領では天正19年,文禄3年,慶長8年,寛文5・6年,延宝2・6年,小田原藩領では天正19年・万治年間,旗本領では,天正19年米倉領,慶長8年青山領,寛文11年窪田領,延宝3年長谷川領,同6年渡辺領その他に実施された。郡の南部を東海道が横断,南東部には五十三次の1つ平塚宿があり,同宿には定助郷45か村(郡内44・愛甲郡1),加助郷18か村(郡内6・愛甲郡12)が属した。平塚宿の北西に中原宿があり,慶長元年徳川家康がここに旅宿(中原御殿・御鷹野御殿)を建てた。ここにはまた代官頭伊奈忠次によって代官陣屋(中原陣屋)が設けられ,相模国南部の幕府領支配に当たった。慶長15年忠次以後の代官を中原代官と称し,その復数代官を相代官といい,全国幕府領支配でもまれな相代官制が施行された。相模川沿いの馬入村と須賀村は代表的な物資集散地で,特に須賀は通称須賀湊といわれ,廻船9艘が物資輸送にあたった。ほかに漁船32艘があり,元禄年間まで初鰹を将軍に献上した。郡の北部を矢倉沢往還が横断,この道は大山道ともいう大山参詣の道で,毎年初夏の祭礼には関東各地からの参詣人でにぎわい,宝暦10年には年間14万人を数えたという。大山道に沿って在方商業の一中心,伊勢原村があり,ここでたった相場を伊勢原相場といった。用水は「新編相模」にいう大用水・田村用水・五か村用水・九か村用水のほかに,玉川・鈴川・金目川・水無川・室川・延沢川・渋田川・歌川などの河川から引水する諸用水がある。物産としては秦野煙草が著名で,大麦・甘藷・山椒も佳品といわれ,日向【ひなた】村の日向山椒は大山の御師が札配りのとき山椒を添えて贈るならわしがあった。その他,大山阿夫利社175石・日向村薬師寺60石・平塚新宿八幡宮50石・下吉沢村松岩寺30石など,郡内には378石の朱印地があった。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7302553 |