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神奈河郷(中世)


 鎌倉期~室町期に見える郷名。武蔵国久良岐【くらき】郡のうち。神奈川・神名川とも書き,カメ河・金河・狩野河ともいう。文永3年5月2日の北条時宗下文に「鶴岡八幡宮領武蔵国稲目・神奈河両郷役夫工米事」と見え,武蔵目代に当郷の役夫工米を免除するよう命じている(鶴岡八幡宮文書/県史資1‐526)。武蔵国は鎌倉期を通じて関東御分国(将軍家知行国)であり,当時国務沙汰権を北条氏得宗が掌握していたことがわかる。下って「鶴岡社務記録」暦応元年9月14日条には「船三艘被吹寄吹(ママ)神奈川之間,数輩生取之,切懸了」と見え,9月の初めに伊勢を出発して東国に向かった義良親王・宗良親王の一行は海上で暴風雨にあい,その一部が当地に流れつき処刑されている(神道大系)。なおこのことは「太平記」奥州下向勢逢難風事に「伊豆ノ大嶋・女良ノ湊・カメ河・三浦・由居ノ浜,津々浦々ノ泊ニ船ノ泊ニ吹寄ラレヌハカリナリケリ」と記されている。康永元年8月3日の覚園寺文書目録には「一通 持宝院領金河村寄進状〈駿河左近大夫〉」と村名で見え,覚園寺の塔頭持宝院に寄進されていたことがわかる(覚園寺文書/県史資3上‐3606)。正平7年閏2月19日の新田義宗注進状案写に「同十八日攻入鎌倉之処,尊氏已下凶徒已没落,楯籠武州狩野河候之間」,同年3月5日の覚誉書状案写に「抑去月十八日,関東凶徒等没落武州狩野川之城」などとあり,上野で挙兵した新田義宗・義興兄弟は,武蔵を経て鎌倉に攻め入ったが,足利尊氏は鎌倉をすてて当地に逃れている(園太暦正平7年3月4日条/同前4139・4142)。なお江戸期の「新編武蔵」はこの「武州狩野川之城」を権現山城に比定しているが詳細は不明。当地は陸路の要衝であるとともに海路の要地ともなっていた。永和4年8月3日の武蔵守護上杉憲春施行状によれば,鎌倉公方足利氏満の命をうけて「武蔵国神(奈脱カ)河・品河以下浦々出入船・帆壱段別銭賃(貨)参佰文事,自当年以参カ年分」を円覚寺仏日庵造営料として寄進している(竜隠庵文書/県史資3上‐4810)。ついで,康暦元年12月27日の武蔵守護上杉憲方遵行状でも守護代大石遠江入道に対して円覚寺雑掌に「円覚寺仏日庵造営要脚」として「武蔵国神奈河・品河以下浦々出入船帆別銭」を沙汰付するよう命じているが(円覚寺文書/同前4836),これは前述の上杉憲春の施行状に「自当年以参カ年分」とあるように,仏日庵造営の一時的な寄進と思われる。明徳3年から応永3年にかけての分が記されている武蔵国品河・神奈河両湊帆別銭納帳(金沢文庫古文書/同前5159)に「帆別銭納帳〈明徳三年二月始之〉」とあるように,明徳3年2月以降帆別銭は金沢称名寺に納められている。なお同銭納帳に「神奈河分 五貫文 二月分……二貫文 六月分 以上十二貫文〈寺納〉〈自此月道阿弥承之〉……四貫文 二月分〈此月マテ道阿弥所務〉十貫文 四月分〈此月ヨリ井田殿ウク〉……六貫文〈自十月至極月,品河分二貫ツゝ道阿弥出之,為後年承也〉」,またもう一通の武蔵国神奈河・品河両湊帆別銭納帳にも「一,明徳三年分 神奈河分 廿貫文〈十二貫文ハ寺家代官納,八貫文ハ道阿弥納之〉」(同前5218)などと見える道阿弥については当地の問丸とされている(横浜市史1)。年未詳の武蔵国品河・神奈河両湊帆別銭下行状には応永3年から同6年までの帆別銭の使途が記されているがその中に「四百八十文 鍬三口 カノ河ヨリ四月□日」と見える(金沢文庫古文書/県史資3上‐5230)。また,同2年6月から始められた金沢称名寺金堂の修造の費用274貫405文のうち,帆別銭は大部分の252貫文を占めていた(金沢文庫古文書/同前5131)。応永3年7月23日の斯波義将施行状に「神奈河郷」と見え,関東管領上杉朝宗に対し当郷などを上杉憲定代に沙汰付するよう命じている(上杉文書/同前5167)。文明12年の太田道灌上洛の際の紀行文とされている「平安紀行」によれば,「かの川にて,蜑小ふね軒はによする心ちしてなかめえならぬかの川の里」と当地で詠んでおり,「河崎―いさご―かの川―かたびら―平塚」と江戸から相模へ通じる陸路の要衝となっていた(群書18)。なお「梅花無尽蔵」には「神奈河〈二日,出世戸井赴江戸,途中有老松屈檠,其形如竜,其処号鵜森〉神奈民鄽板屋連,深泥没馬打難前,鵜森春動臥松老,未入飛竜九五乾〈画島在海中央〉」と見え,万里集九も当地を通過したことがわかる(続群12下)。また戦国期の「東国紀行」によれば,天文14年3月3日宗牧は「かな川まで道のほども遠ければ」と記し(群書18),「北条記」の公方義氏公鶴岡八幡御参詣之事にも「江戸,川崎,神奈川,鎌倉まで伝馬其外御供の人々の馳走として,道中を警固す」とあり,宿場として伝馬も備えられていたことが知られる(続群21上)。付近には,永正7年上杉朝良と北条早雲に通じた朝良の臣上田政盛との攻防の舞台となった権現山城がある。同年8月3日の上杉憲房書状写には「然間,建芳(上杉朝良)被官上田蔵人入道(政盛)令与力,神奈河権現山於取地利,致慮外候間,建芳自身向彼地罷立候……自去十一相攻彼現権(ママ)山,同十九夜中令没落候」と,権現山合戦のことが記されており(武家事紀/県史資3下‐6491),「北条記」にも「永正七年七月十一日,神奈河の権現山の城を稲麻竹韋の如く取巻たり」と見える(続群21上)。結局,権現山城は落城したが,「豆相記」に「自享禄三迄天文五七年之間,於武州品川,神名川,府中,高井戸,所沢,瀬田谷等邑与上杉挑戦,北条毎戦必勝矣」とあるように,やがて当地は小田原北条氏の支配するところとなった。なお,大永元年12月16日の年紀のある弘明寺額銘に「旦那神奈住人」とあるが,これは当地のことと推定される(新編武蔵)。一方,永享5年10月17日の竹内祐実檀那売券に「武蔵国かな川のゑとやのふるい」とあり,当地の檀那職などが12貫文で実報院に売り渡されている(米良文書/県史資3上‐5887)。また同9年10月17日の竹内弥太郎・たゝ檀那売券でも「武蔵国かな川・しな川,そうして武蔵国の旦那一円」が12貫文で実報院に売却された(同前5926)。ついで同12年12月18日の道満檀那売券にも「武州しな河・かな河の旦那一円」が23貫文で寛宝房に売却されている(同前6016)。寛正5年7月21日の比丘尼祐円利銭借用状には「武蔵国かな川の筒屋のふかす殿一家一円ニ入置申所実也」とあり,利銭1貫文の質として入れている(同前3下‐6296)。ついで同7年3月28日の比丘尼祐円檀那売券では「武蔵国神名河ふかす一門」が3貫文で実報院に売られている(同前6302)。下って永正15年12月25日の伊勢御師久保倉藤之の道宿日記には「かの川分」と見える(大日料9-8)。戦国期の「役帳」には,小田原北条氏御馬廻衆中島宗南斎の所領役高として「八貫五百文 小机 神奈川斎藤分」,御家中役之衆矢野彦六の所領役高として「百貫文 武州神奈川」と見える。戦国期には公用荷物などの輸送を浦から浦へ船送りする,いわば浦伝制というべきものが海上交通の整備のため,小田原北条氏の支配下で天正初年頃から推進されたという指摘もあり,また当地の海上交通による繁栄は,この土地の土豪・百姓たちの寺領侵略に基づく成長によるものとみなされている(横浜市史1)。年未詳未の12月24日の北条氏規朱印状写によれば「神奈川鍛冶新四郎」に対して棟別銭270文が免除され,軍役を勤めるよう命じている(武文/県史資3下‐8914)。下って天正17年12月19日の北条氏政書状写では,氏規に対して「神奈川之家悉退転候,然共昔之帳ニ而,棟別銭をハ取候,是を以可有御分別候」と豊臣秀吉の小田原攻めに対処するため,百姓動員の体制を強化するよう命じている(大竹文書/同前9529)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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