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金沢郷(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える郷名。武蔵国久良岐【くらき】郡六浦荘のうち。「かねざわ」とも称した。地名としては,文永6年11月3日の金沢顕時寺領寄進状案に「武蔵国金沢称名寺々内寺外敷地事」とあるのが初見で(金沢文庫古文書/県史資1-590),寺の内外の敷地を称名寺に寄進している。執権北条泰時の弟実泰は六浦荘を与えられ「六浦殿」あるいは「釜利谷殿」と呼ばれていたが,実泰の子実時は当郷内に屋敷を移し,邸内にたてた持仏堂をのちに独立させて寺院(称名寺)とした(横浜市史1)。建治元年5月,病で当郷内の別業に籠居した実時は,翌2年10月23日当郷で没したが(関東評定衆伝/群書4),実時の子孫は当郷に住み金沢氏を称した。この金沢称名寺は真言律宗で,奈良の西大寺より僧審海を招いて開山として以降,寺内に文庫(のちの金沢文庫)が設けられ,和漢の書が集められている。現存する書籍の中にも,建治2年4月5日の年紀のある私用心の奥書に「金沢北郎書写畢」(昭和現存天台書籍綜合目録上)とあるのをはじめとして,郷名としての初見である金宝抄巻十奥書には「建治三年正月七日,於金沢郷称名寺,全部十帖,書写之畢」(金沢文庫古文書/県史資2-811)とあり,そのほか両頭八臂愛染王記識語・玄秘抄奥書・維摩経略疏第一奥書・北斗法識語聖教奥書・六通貞記奥書・宝楼閣経法識語・宝珠法識語などにも「武州六浦之荘金沢之郷称名寺」(金沢文庫古文書12),「金沢称名寺」(同前/県史資2-1045)などと記されており,称名寺で数多くの典籍が書写されていたことが知られる。文永6年11月7日に実時が称名寺に寄進した梵鐘は,正安3年8月9日その子顕時の命で,大工大和権守物部国光・山城権守物部依光らにより改鋳されている(称名寺所蔵/同前1-591)。寺内には知足院・弥陀院などの塔頭があった。なお,「伝法灌頂附法次第」の弁誉の項には「正嘉二年〈戊午〉四月廿三日……於武蔵国倉城郡六連庄内金沢村点越後守平実時堂廊伝之」と村名で見えている(金沢文庫古文書9)。弘安8年12月21日付の称名寺長老宛の金沢顕時書状案によれば,同年11月に起きた安達泰盛の乱に縁座した顕時(泰盛の女婿)は上総国に配流されたが,「金沢郷事,不可有子細之由,被仰下候之間」とあり,当郷については安堵されている(賜蘆文庫文書/県史資2-1023)。嘉元3年4月28日の瀬戸橋造営棟別銭注文案によれば,称名寺領の諸所に棟別銭が課されており,「六貫二百三十二文 金沢分」とあることから,当郷には6貫232文が課されていたことがわかる(金沢文庫古文書/同前1436)。この瀬戸の地については,延慶4年3月22日の金沢貞顕書状に「称名寺々内山木畠并金沢瀬戸内海殺生禁断事」とあり(同前1804),当郷内であったことが推定され,殺生禁断については同年月日の金沢貞顕袖判倉栖兼雄奉書で「金沢・富田給主等」に相触れるよう富谷左衛門入道に命じられている(柳瀬福市氏旧蔵文書/県史資2-1806)。なお,これより先にも文永10年と推定される年未詳3月29日の金沢実時書状で「世戸堤内入海殺生禁断事」が伝えられ(同前1-653),同年4月2日六浦荘の政所と推定される左衛門尉俊長が請文を作成している(同前654)。元徳3年4月23日に入滅した鶴岡八幡宮別当顕弁は,金沢顕時の息で,当郷に葬られた(鶴岡八幡宮寺社務職次第/群書4)。この頃には,当郷を含む六浦荘の山海の風景の美しさが知られていたらしく,吉田兼好も訪れてしばらく居住していたという(兼好法師行状/新編武蔵)。ただし,近江八景になぞらえて「山市青嵐,漁村夕照(瀬戸浦辺),江天暮雪,遠浦帰帆,瀟湘夜雨,洞庭秋月,煙寺晩鐘,平沙落雁」といわれた金沢八景がいつ成立したか判然としない。当地は甲香【かいこう】の貝の名所としても知られており,「徒然草」には「武蔵国金沢といふ浦にありしを,所の者は,へなたりと申し侍るとぞ言ひし」と記されている(古典大系)。南北朝期に入ると,当郷および称名寺は足利氏(のち鎌倉府)の支配下におかれるようになる。建武元年11月16日の足利直義安堵状では「当寺(金沢称名寺)住持職」が剣阿に安堵された(金沢文庫古文書/県史資3上-3188)。ついで暦応2年3月6日に湛睿が(同前3446),貞和3年4月19日に観蓮上人が(同前3977),文和3年11月6日・11月12日に玄寥御房が(同前4271・4273),嘉慶2年10月28日に空本御房が(同前5049),おのおの足利直義・尊氏・基氏・氏満によって安堵された。一方,観応3年3月3日の足利尊氏寄進状案で「□(武)蔵国金沢郷塩垂場⊏⊐」が金沢称名寺に寄進され(同前4140),同年3月17日の足利尊氏御教書案で「寺内寺外敷地等」が金沢称名寺長老実真に安堵されている(同前4146)。ついで康安2年4月20日の高坂氏重代官左衛門尉信斗打渡状および同日の古尾谷刑部大輔入道代官直正打渡状で「武蔵国六浦庄金沢称名寺領」および「同寺(称名寺)内阿弥陀堂敷地并塩場」が安堵され,5月24日に関東管領高師有の制札が下された(同前4401~4403・4414)。しかし,応安7年9月2日の細川頼之奉書案および同8年8月6日の上杉能憲奉書案などによれば,「武蔵国金沢郷内当寺敷地等」に村上河内入道正貞の代官高行の違乱があり,称名寺の雑掌頼恵および光信から訴えが出され,結局下地は光信に沙汰付けされた(同前4726・4746・4747・4749・4750)。ついで永和2年6月22日には足利義満寺領安堵状が下されている(同前4761)。建武元年11月23日の都法秘録奥書写に「金沢称名寺僧観蓮上人被渡之畢」(宝戒寺文書/相文4),暦応3年2月11日の大乗起信論義記にも「於武州六浦庄金沢称名寺方丈写点畢」(金沢文庫古文書11)などとあるように,南北朝期にも典籍の収集・書写は続けられていた。当郷内には称名寺の他,「金沢瀬戸内通寺」(梵網経古迹記/金沢文庫古文書12),観応3年9月3日足利尊氏の祈願所となった「武蔵国金沢郷光徳寺」(神田孝平氏旧蔵文書/県史資3上-8184),称名寺の末寺である「武州金沢大宝院」(金沢文庫古文書/同前4659)などがあった。光徳寺には永徳3年12月25日に頼印僧正が入寺しているが(頼印大僧正行状絵詞/続群9上),とくに大宝院には,応安4年4月15日,大須賀宗信・憲宗によって「下総国大須賀保柴村内田壱町・在家壱宇」などが寄進され(神田孝平氏旧蔵文書/県史資3上-4659・4660),応永30年4月28日には鎌倉公方足利持氏が天下安全の祈祷を命じている(新編武蔵/同前5673)。文和2年4月27日,称名寺住持実真によって瀬戸橋供養が行われたが,その瀬戸橋供養表白に「武州六浦金沢之境号之瀬戸之橋」とあり,この橋が当郷の南境にあったことが知られる(金沢文庫古文書/同前4226)。貞治2年4月16日鎌倉公方足利基氏は,称名寺長老什尊に対して,先例により「金沢瀬戸内海殺生禁断事」を命じた(同前4449)。年月日未詳の某書状には,「かねさハの年貢事」とか「金沢年貢船」などと見えており,当郷には港湾施設があったことが推測される(同前3958)。応安3年10月3日および同4年9月10日の称名寺領上総国周東郡波多沢村検見帳には「金沢御蔵納」「金沢御蔵本納定」などとあり,倉庫施設も存在した(同前4646・4670)。正平26年2月27日の右馬頭□泰寄進状では,「六浦庄内釜里□(谷)・金沢両郷」が称名寺に寄進されているが,この文書は前欠であり,正平は南朝年号で,しかも建徳と改元されてから2年もたっていることなどから,検討を要するものと思われる(同前4653)。永享10年末から11年にかけて起きた永享の乱の際には当地は戦場となり(関東合戦記/続群21上),永享11年6月日の真壁修理亮某代皆河左衛門尉綱宗軍忠状写には「金沢江御勢仕之時」とあり(秋田藩採集家蔵文書12),足利持氏に従った上杉憲直が当郷で自刃している(上杉系図/続群6下)。当郷は「廻国雑記」に「是より瀬戸金沢といへる勝地の侍るを」(群書18)とあるように景勝の地で,文明年間には聖護院道興をはじめ「梅花無尽蔵」の著者万里集九や(続群12下),「北国紀行」の尭恵法印などが(群書18),また天文14年には「東国紀行」の宗牧(同前)が訪れている。永正13年6月13日の相河半吾証文には「金沢六ケ村」とあるが詳細は不明(能永寺文書/県史資3下-6520)。天文10年5月5日の年紀のある洲崎村竜源寺の鐘銘には「大日本国武州六浦庄金沢郷知足山竜華寺」とある(新編武蔵)。戦国期の「役帳」には「一,金沢称名寺領 七十七貫文 久良岐郡金沢ニ伏」と見える。永禄10年7月18日の北条家伝馬朱印状によれば,「金沢より浦賀まで宿中」にあてて伝馬1疋・鍛冶・番匠を置くよう命じており(武文/県史資3下-7549),同年7月19日の北条家朱印状写にも「かち書立 一ほと 金沢」とある(同前7550)。また永禄11年4月10日の北条家朱印状によれば,小田原北条氏は当郷から船方1人分の番銭を徴収していたが,昨年7月から今年2月までの不参の番銭6貫300文の半額を急ぎ納入するよう命じている(金沢文庫古文書/県史資3下-7592)。また同13年4月9日の北条家朱印状写によれば,「〈金沢〉小三郎」とあり,当郷から番匠1人が徴用されている(相文/同前7944)。ついで,元亀2年と推定される年未詳8月5日の北条康成書状には「飛札到来,一昨夜金沢浦江,房州より海賊小船弐艘来折節」とあり,房州の里見氏水軍の襲来をうけたことが知られる(堀内文書/同前8056)。天正13年12月15日の北条氏勝判物写には「本目領……金沢村」と村名で見え,当村など2,000貫文が堀内日向守に安堵されている(同前9147)。下って同18年正月21日には「金沢之内称名寺」にあてて北条家定書が発給され,郷内の当作の種子農料・兵粮などについて定めている(金沢文庫古文書/同前9576)。また天正18年4月日の豊臣秀吉禁制(同前9723)が「武蔵国金沢称名寺」ほか2か寺に下されており,秀吉は,小田原攻めに際して当地を掌握しようとしたことがわかる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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