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金目郷(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える郷名。相模国淘綾【ゆるき】郡のうち。金目荘ともいう。治承7年5月3日付源頼朝下文に大法師源信を「金目観音堂別当職」に補任するとあり(金目光明寺文書/県史資1‐26),また同年と推定される5月16日付源頼朝御教書に「金目郷麦事,全以不仰付事候,凡ハはそれならす,仏神於御領者,皆悉令御免候了」と見えるが(尊経閣文庫所蔵/同前27),これらの文書は検討を要する。「吾妻鏡」建久3年8月9日条に,鎌倉幕府が北条政子の安産祈祷のため神馬を奉献した相模国神社仏寺の1つとして「観音寺 金目」とある。当郷は鎌倉期には二階堂摂津伊勢入道(行意)が地頭職をもつ所領であったが,鎌倉幕府滅亡時に没収され,「相模国金目郷半分」は建武2年3月28日,足利尊氏から鎌倉宝戒寺に寺領として寄進された(宝戒寺文書/県史資3上‐3206)。これと同時に,当郷の残り半分は鎌倉瑞泉寺に寄進され,宝戒寺から代官広田秀倫,瑞泉寺から代官伊戸道紹が出て当郷を分割した(相文/同前5070)。以後,瑞泉寺領金目郷半分を金目郷北方,宝戒寺領金目郷半分を金目郷南方と称した(同前)。建武4年10月16日,足利直義は,円観上人恵鎮に宝戒寺住持職と寺領金目郷半分(南方)を安堵した(宝戒寺文書/県史資3上‐3340)。金目郷北方については,暦応2年2月6日散位貞国打渡状に「相模国金目郷半分地頭職」を浄光明寺雑掌に交付する旨が見え(評定文/同前3439),この頃瑞泉寺領から鎌倉浄光明寺領となったと思われる。この後,貞治5年9月16日には鎌倉公方足利基氏が守護使入部を禁じ(浄光明寺文書/同前4575),室町期の明徳4年3月晦日には鎌倉公方足利氏満,享徳2年12月15日には鎌倉公方足利成氏が諸公事賦課を免除するなど,代々,当郷北方は浄光明寺領として安堵された(慶応義塾図書館所蔵/同前5100,浄光明寺文書/県史資3下‐6169)。応永28年12月11日の吉岡盛胤請文などによれば,当郷北方の本田数は37町5反180歩で,この年,金目(花水)川の氾濫によって20町が流失したという(浄光明寺文書/県史資3上‐5637~5640)。金目郷内には鎌倉期から光明寺領田10町8反が所在し,建武3年12月23日の鎌倉府執事斯波家長奉書によって安堵されたという(金目光明寺文書/同前3314)。金目光明寺は南北朝期には宝戒寺末寺で,宝戒寺領金目郷南方の在地支配を行った。光明寺の正平7年2月日付鐘銘には「相模国金目郷光明寺鐘」と見える(日本古鐘銘集成)。金目郷の光明寺領は,建武2年,当郷が分割された際,5町5反は宝戒寺,5町3反は瑞泉寺の進止となり,宝戒寺進止分はその後返還されたが,瑞泉寺進止分は当郷北方が浄光明寺領となった後も返付されなかった。このため,嘉慶3年から翌明徳元年に光明寺は浄光明寺と相論し,浄光明寺側は光明寺に侵入して茶園の茶を摘み取るなどの乱暴を働いた(相文/県史資3上‐5054・5068・5070)。年未詳の光明寺田畠注文には田10町8反・畠3町6反が記され,田所在地として「そり・ゑのきかつほ・宮前後・あらた・はなハの宮のまへ・すのこハし・つつみさき北方・おほつほ北方・いかつちかつほ北方・しのハら・いわやた・ハしあらた・ふかまち・ふなハら・木影」,畠所在地として「あをやき・ゑくほ・たこみね・まわりくねのハく・こゑくほ・たかま」などの地名がある(光明寺文書/相文)。戦国期,小田原北条氏治政下では,「役帳」に小田原北条氏江戸衆遠山丹波守の所領役高として「五百六拾貫文 中郡 金目郷」とある。なお,応永年間の密厳院領関東知行地注文に「相州……金目庄」と見え,当郷が荘号を称し走湯山領であったことがうかがわれるが,詳細は不明。江戸期には北金目村・南金目村が見える。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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