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国府津(中世)


 鎌倉期から見える地名。相模国足柄下郡のうち。初見は弘安元年閏10月22日の四条左衛門頼基宛日蓮書状(日蓮聖人遺文/県史資2‐868)で,鎌倉に帰る頼基の身を案じて「余りの覚束なさに,鎌倉より来る者ことに問候つれは,或人は湯本にて行合せ給と云,或はこふつにと,或人は鎌倉にと申候」と記し無事を喜んでいる。当地が鎌倉へ至る東海道の宿駅の1つであったことを示している。南北朝期の観応2年12月27日,足利尊氏と同直義との戦いで,尊氏方救援のため「小山判官モ宇都宮ニ力ヲ合テ,七百余騎同日ニ古宇津ニ著」いたという(太平記3/古典大系)。また文和2年と推定される8月25日付の空静書状案写(園太暦/県史資3上‐4237)に,尊氏の上洛の情報として「まさしくこうつと申候所にて,自其先立」と見える。「曽我物語」にも,工藤祐経が伊豆から鎌倉へ通う道筋として「佐河(酒匂),古宇津,大磯」と見える。応永23年の上杉禅秀の乱では,禅秀方を攻める今川勢・三浦勢・伊豆山衆徒らは12月25日に「小田原,国府津,前川に陣を取」っている(鎌倉大草紙/群書20)。年月日不詳であるが,「相模国小田原,国府津宿辺」に鶴岡八幡宮の両界一切経修理以下要脚関所が設けられた(鶴岡等覚院文書/新編相模)。戦国期に入って,文亀2年連歌師宗祇は武蔵から駿河へ向かう途中の7月29日,病のため当地に宿泊,翌日湯本において死去した(宗祇終焉記/群書29),大永8年には「国府津地青寺薬師堂」の勧進状が作られている(宝金剛寺文書/小田原市の古文書)。天文24年5月28日の地青寺宛北条家朱印状には,「於国府津番匠可召仕事」とあり,八幡宮,天神宮,地青寺,蓮台寺修造時の番匠の雇用について定め,また大工は八郎左衛門とすることを定めている(宝金剛寺文書/県史資3下‐6990)。永禄13年4月9日の北条家朱印状写(相文/同前7944)は,相模の番匠に対し湯本で当年の御番細工をするよう命じたものであるが,当地の八郎左衛門と太郎左衛門の名が見える。地青寺はこの間に宝金剛寺と寺名を改めており,元亀3年11月15日,大阿闍梨権大僧都法印大和尚位恵雄は「相州足上(ママ)郡田嶋郷内国府津村宝金剛寺道場」において実雄に印可を授けている(宝金剛寺文書/大日料10‐12)。当地が田嶋郷に属したことを示し,また国府津村と表記する初見文書である。天正3年9月29日には相模国諸真言衆法度が「国府津 宝金剛寺」他6か寺に出されている(金剛頂寺文書/県史資3下‐8301)。永禄10年正月晦日の北条氏康什物寄進状写(相文/同前7527)には,「一,灯明銭 六貫六百文 国府津田嶋之内ニ仗(伏)」とあり,板橋の香林寺の灯明銭が当地から出されていた。天正14年3月16日,宝金剛寺は北条氏直から「国苻津之内寺領」を安堵されており(宝金剛寺文書/同前9165),同日付の板部岡融成副状(同前9166)によれば,寺領の貫高は本増合わせて11貫200文で,その他に加地子を収取していたことがわかる。同年3月7日,北条氏は同寺に対し前々の如く諸役を免除し(同前9163),天正15年9月8日には「田嶋郷天神別当 安楽院」に対しても諸役を免除している(相文/県史資3下‐9302)。この天神は先の天文24年北条家朱印状に見える天神宮のことであろう。「国府津の護摩堂」では永禄2年の暮に足利晴氏の,元亀元年秋には北条氏康の病気平癒の祈念が行われている(北条記3・4/続群21上)。これは宝金剛寺の堂で,天正7年と推定される12月1日の北条家朱印状に「国府津 護摩堂」と見え,その傍らにあった松木と梅木を小田原城内の庭に移すよう命じられている(宝金剛寺文書/県史資3下‐8544)。弘治3年11月15日の北条家朱印状写(相文/同前7051)では,「御前様御台所船諸役御免条々」として,「国苻津 村野惣右衛門」に対し5か条の赦免が与えられている。村野は当地の船主で,その船が本城主の「御台所船」に指定され,1か月に250文に相当する魚介類を納入するよう義務づけられたのである。その代わりに村野は浦賀定詰の船方役の半分を免除されたり,諸浦において網を引き釣をする権利を認められた。永禄3年2月23日の北条家朱印状写(同前7136)では改めてこの魚介類納入について定められており,鯛1つ10文など魚の値段を公定した上で,毎月の上10日に2~3度にわけて250文分を納めるよう命じている。永禄9年6月10日の北条氏康朱印状写(同前7489)では,「国苻津 小代官・船持中」に対し,火急の用につき今夕に魚を本城台所へ届けるよう命じている。永禄11年4月10日の北条家朱印状案(金沢文庫古文書/県史資3下‐7592)によれば,国府津から1人の船方が伊勢東海船に乗り組むよう定められていたが,前年7月から不参が続いたため,3貫文余の番銭を納めるよう命令されている。豊臣秀吉の小田原攻めに際しては,天正18年4月日の豊臣秀吉禁制が「西郡国津」宛に(相文/同前9736),同年5月日の同禁制が「西郡内国府津郷真楽寺并門前共ニ」宛に下されており,秀吉は小田原攻めに際して当地を掌握しようとしたことがわかる(同前9790)。また北条氏滅亡後の天正19年4月14日,全阿弥宛に「国府津護摩堂寺領」の書上が作成されており(宝金剛寺文書/小田原市の古文書),「本途拾壱貫余」と見える。これは北条氏から認められた寺領の貫高であったが,それが「今度御棹打帳面」では田1町2反90歩,畠1町4反80歩となっていると記されており,この年徳川氏による検地が行われたことがわかる。同年11月日付で護摩堂は「相模国西郡国府津之内弐拾弐石」を徳川家康から寄進されている(同前/徳川家康文書の研究)。なお沼代村の鎮守若一王子権現社の天正19年11月2日付棟札には「導師国府津宝金剛寺法印恵雄,大工国府津雲野八郎左衛門」と見える(新編相模)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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