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小杉村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。武蔵国橘樹【たちばな】郡のうち。小杉宿とも称した。寛永10年・元禄10年幕府領,幕末には江戸増上寺領と幕府領・西明寺領。村高は,「田園簿」では610石余うち田503石余・畑107石余ほかに西明寺領10石,見取場として田2町8反余・畑5町4反余,「元禄郷帳」704石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに707石余うち幕府領232石余・増上寺領464石余・西明寺領10石。検地は寛永20年・元禄10年。当村は中原往還筋に位置し,寛文13年に宿駅に定められ人足2人・馬1匹を常備し,月のうち最初の半月を上宿,後の半月を下宿が勤めた。旅人や荷駅の継送りを行っていたが,主に商人・荷物の取り扱いでにぎわっていた(川崎市史)。小杉宿の問屋は名主の安藤氏が勤めた。徳川家康・秀忠は鷹狩の折,当村で休憩・宿泊をしている。その際はじめ中原街道沿いの小泉次大夫の建てた妙泉寺を利用したが,慶長13年仮御殿を建設。当時小泉次大夫による二ケ領用水工事中,当村は行政の拠点になっていた。その後小杉御殿は,寛永17年に正式な御殿として完成した。総面積1万2,000坪余,表・裏御門のほか,御馬屋敷・御蔵・御賄屋敷・御殿番屋敷などが立ち並んでいた。同御殿は,明暦元年に一部が取りこわされ品川の東海寺へ,万治3年には残りを上野の弘文院にそれぞれ下賜される(待望丸子橋・川崎市史)。江戸初期の年貢割付状が残り,寛永20年には米180石余・永19貫508文,寛文7年米191石余・永13貫513文,宝永4年には米97石余・永24貫900余文が課せられている(安藤家文書/県史資6)。「新編武蔵」によれば,江戸から4里,東西6町半・南北15町余,家数23軒,西境を二ケ領用水が流れるが水路が不便で村内の用水とはならない。鎮守は杉山社(現小杉神社),寺院は真言宗西明寺がある。同寺は寛永19年に寺領10石を賜っている。杉山社はのち神明社・天満宮を合祀。名主は安藤氏・永塚氏が世襲。明和3年池上幸豊の願い出により,関東郡代伊奈備前守忠宥から川崎・稲毛・神奈川領内の幕府領へ甘蔗栽培の触が出されており,当村へも甘蔗苗が配布されている(川崎市史)。小杉宿は江戸前期には活気をみせていたが,東海道の開通により,中原往還の利用は減り,宿としての機能は停滞気味となり,天保9年の商人渡世書上帳では旅籠屋・髪結・湯屋・薬農各1軒,穀屋2軒,肥料屋・居酒屋・材木商各3軒,荒物瀬戸物屋5軒と見える(同前)。安政3年には同宿の盛況をとりもどすべく,当村および上丸子村・上小田中村・下沼部村の村役人は佐江戸宿問屋とともに,秦野【はだの】の煙草問屋に対し,江戸送りの荷は中原往還を経由するよう陳情している(同前)。明治元年神奈川府を経て神奈川県に所属。同9年小杉学校設立。同22年中原村の大字となり,飛地は御幸【みゆき】村の一部となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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