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相模国


天正18年7月豊臣秀吉の小田原城攻撃により,小田原北条氏は滅亡した。8月1日徳川家康が関東へ入国。天正18年から19年にかけ,家康は関東の知行割りを実施。当時国内の全村数は推定で約554か村,うち直轄領275か村(49.6%)・小田原藩領147か村(22.6%)・旗本領73か村(13.3%),直轄領・旗本領相給42か村(7.6%),このほか寺社領あるいは寺社領と直轄領の相給12か村,預地5か村となる。文禄3年当時相模国高は19万4,204石余で,これを概数ではあるが所領別にみると,直轄領約11万1,900石余・小田原藩領4万石・旗本領約4万石・寺社領約7,300石余で,直轄領は全石高の59%を占めている。立地条件をみると,直轄領は街道と河川沿いや山間・海付の地域,藩領は関東への入口,旗本領は内陸に集中している。結果として,直轄領は交通の要衝と山海による軍事体制上の防衛地域,小田原藩で関東の備えとしている。旗本領は内陸,特に相模川両縁辺に集中するが,ここは生産制の高い地域である。天正期における国内の知行割りは軍事体制によるものである。天正から慶長年間にかけ国内の幕府領は,鎌倉郡岡津村に陣屋をもつ代官頭彦坂元正,大住郡中原陣屋による代官頭伊奈忠次,三浦郡浦賀陣屋の長谷川長綱等が管知した。また特に江戸湾や国内海岸防備から三浦半島の先端に三崎番所が設置された。こうした国内幕府領の支配は,慶長末年の代官頭制の解消により,大住郡・淘綾【ゆるき】郡全体と愛甲【あいこう】郡の一部幕府領の支配体制に大きな変化が出現した。全国幕府領でもまれな相代官制である。これは中原陣屋詰の代官たちによって構成され,以後寛文年間頃まで続いた。直轄領中心の所領構成は,寛永10年幕府の実施した地方直しを契機として変わってくる。国内8郡のうちほぼ小田原藩領で続く足柄上郡・同下郡を除いた6郡をみると,寛永10年幕府領48%,旗本領を中心とした私領37%,幕府領・私領相給15%,寛文6年幕府領32%,私領53%,幕府領・私領相給15%,元禄10年幕府領30%,私領59%,私領・幕府領相給11%となり,この後私領はさらに増大する。特に文化年間から三浦半島全体と鎌倉郡の一部が海防のため陸奥会津藩や長門萩藩の,また天保年間には東海道の宿駅の一部も小田原藩の支配になり幕府領は極度に減少した。この間諸藩領も設定され,近世を通じ国内には36藩が所領を有した。古くは駿河駿府藩徳川忠長領,武蔵忍藩松平信綱領等があるが,これは小規模で,1万石以上の規模としては,慶安年間から始まり,寛文2~4年を中心に成立した下総関宿藩久世氏,寛文2年下野前橋藩酒井氏,元禄11年関宿藩牧野氏等があるが,その後元禄12年下野皆川藩米倉氏領の設定と同藩の享保7年武蔵六浦への陣屋替えによる金沢藩(六浦藩)の成立,享保13年5月下野烏山藩領(大久保氏)の設定,同3年駿河松永藩領(大久保氏)の設定とその陣屋替えによる天明3年10月愛甲郡荻野山中藩の成立,宝暦10年下総佐倉藩領の設定等がある。相模国の石高と村数は,文禄元年554か村・19万4,204石余,正保元年605か村・22万617石・永1,596貫文余,元禄15年679か村・25万8,216石余・永1,348貫文余,天保5年671か村・28万6,719石余・永1,346貫文余,明治元年679か村・29万914石余・永1,322貫文余となり,文禄元年~正保元年の2万6,413石余と,正保元年~元禄15年の3万7,598石余の石高の増加が顕著である。この石高の増加は,主に沖積地の本田と台地上の本畑の持添の開発と,さらに新田開発による。持添開発の場合,たとえば高座郡田名村では天正19年451石余が文禄3年には666石余,また同郡上溝村は文禄3年200石が慶長8年500石と増加している。新田開発では酒匂川流域では足柄下郡新屋村が天正~元和年間,賀茂宮新田が慶長年間,その他6新田がいずれも万治年間以前に開発された。三浦半島の内川新田も万治3年に,相模原台地上の原野である上矢部新田も延宝年間から開発が始まった。新田開発はこの後も進展,「新編相模」による天保年間までの国内の全新田数をみると21新田となる。検地は各地の領主によって少し時代差がある。幕府領の場合,天正19年・文禄3年・慶長8~9年検地を伊奈忠次・彦坂元正,寛文2年~延宝6年検地を成瀬重治・重俊,坪井良重等が実施したが,特に寛文・延宝検地は近世を通じての基本的な検地であった。このほかに鎌倉郡の一部には貞享元年国領重次による検地が行われた。藩領の場合,小田原藩大久保氏は入国直後の天正19年とまた一部に慶長検地,さらに稲葉氏の就封後は本領へ万治総検と,加増地へは寛文検地を実施した。このほかの諸藩では関宿藩久世氏が寛文2・4年,前橋藩酒井氏が寛文13年,関宿藩牧野氏が元禄13年に国内飛地領に総検地を実施した。旗本領の検地はそれぞれの所領によって異なるが,足柄上郡井口村米倉氏領,鎌倉郡秋葉村本多氏領,高座郡当麻村内藤氏領,大住郡小稲葉村青山氏領等の天正19年1・2月検地を上限とし,特に寛文・延宝年間を中心に実施された。国内の総人口は享保6年31万2,638人であるが,この後寛延3年31万769人,天明6年27万9,427人,文政5年26万9,389人と減少するが,のちに増加の傾向をとり,天保5年29万4,004人,弘化3年30万3,271人,明治5年35万6,638人となる。国内の主要な交通は陸上交通の東海道・甲州街道と矢倉沢往還,河川交通の相模川,海上交通の須賀・柳島・浦賀・三崎・山西・真鶴【まなづる】湊等がある。陸上の幹線東海道は国の南部を横断しているが,その宿駅に藤沢宿・平塚宿・大磯宿・小田原宿・箱根宿がある。藤沢宿~小田原宿が慶長6年,箱根宿が元和2年に成立。箱根宿の東方には著名な箱根関所が設置されて,東海道による関東の入国をおさえた。甲州街道は相模国の最北端津久井郡を相模川に沿って東西に横断している。この成立は明らかでないが,慶長期には人馬の継立てが行われている。相模国内には小原・与瀬・吉野・関野の4宿で,これを甲州街道の相州4か宿といっている。このうち小原・与瀬宿はいわゆる片宿で,江戸へ向かう時は与瀬宿,甲府へは小田原宿へ継ぎ立てた。矢倉沢往還は東海道に沿い,ほぼ国の中央を北東から南東に横断している。庶民大山参詣の道でもあることから大山道があるいは富士道ともいった。武蔵国都筑【つづき】郡長津田村から相模国に入り,高座郡下鶴間・国分・川原口,愛甲郡厚木町・愛甲村,大往郡伊勢原・善波・曽屋・千村,足柄上郡松田・関本から矢倉沢を経て駿河国に至る。大山参詣など庶民の道として広く利用され幕末に至り社会不安のため,東海道品川宿~平塚宿の間を矢倉沢往還に付替えが計画されたが実地調査の段階で中止となった。河川交通としては相模川・境川・酒匂川・早川などの諸川があるが,舟運の利用は相模川以外は明らかでない。相模川は国内最大の河川で国の中央を貫流している。津久井郡を最上流とするが,川の周辺諸村落の年貢米は河口の大住郡須賀村・高座郡柳島村から江戸へ輸送される。明暦大火による江戸城修築材木の筏流しをはじめ,北相山間からの木材は筏によって流されたが,この上限は戦国期小田原北条氏治下にみられる。舟運は高瀬舟で行われた。北相からは林産物である薪・炭・木材や漁網の染料である柏皮を下し,上り船で塩・魚・日用品や雑穀を輸送した。相模川の上流津久井郡太井村荒川には荒川番所があり,五分一運上を徴収した。相模川の中継点は愛甲郡厚木町で,烏山藩厚木役所は矢倉沢往還と相模川を監視できるところに設けられ,厚木自体でも7艘の舟をもち,近在諸村の物資を須賀湊へ運送している。海上交通の基点としては戦国期から水軍の拠点であった三浦半島の浦賀・三崎・走水湊がある。国内から江戸などをはじめ各地への輸送をしたが,この3湊は江戸との関係から全国的な海上交通の要衝の性格が強かった。国内との関係では大住郡須賀・高座郡柳島湊が中心であった。相模国で近世史上最も大きな災害といえるものは,宝永4年11月の富士山噴火による砂降りである。砂降りは足柄上郡山北村辺りで1m前後,高座郡藤沢宿辺りで30cm前後,また現横浜市域にも25.6cmほどの砂が積もった。このため村々の田畑は荒廃し,特に小田原藩領は藩の存続にもかかわるほどの被害を受けた。これにより藩領は一時幕府領へ編入され,代知を伊豆国や三河国等に与えられた。この他の村々でも,近世を通して後遺症が続いたところも少なくなかった。自然の災害とは別に,庶民の動向では慶長4年鎌倉郡円覚寺領の棟別銭・反銭過重に対する代官への愁訴をはじめ,一揆や騒動111件がみられる。郡単位でみると高座郡・津久井郡が多く,三浦郡が少ない。近世前期の例としては,元和3年鎌倉郡名瀬村・高座郡宮原村(旗本佐野氏領)や,寛永10年大住郡白根村(旗本小笠原氏領)農民の逃亡があるが,これらはいずれも地領の苛政に起因する。また小田原藩では万治2年検地に対し下田隼人の藩主稲葉勝への直訴事件がある。一揆としては天明7年津久井県や愛甲郡北部を中心とした土平治騒動,天保7年淘綾郡大磯宿の打毀などがある。嘉永6年6月三浦半島浦賀にペリーが来航,慶応3年11月には南相の各地に御札降りがあり,庶民は「ええじゃないか」と乱舞し,同12月には薩摩藩邸浪士による荻野山中藩陣屋襲撃事件が発生した。こうした国内の諸事件は封建社会を根底からゆるがす象徴的な出来事であった。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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