渋谷荘(中世)

鎌倉期~戦国期に見える荘園名。相模国高座【たかくら】郡のうち。渋谷上荘・吉田荘・吉田上荘とも見える。吉田荘について「県史通1」では,「渋谷荘と密接な関係」にあったが,元来別の荘園とみなしている。また「吉田上庄〈号渋谷〉」(入来院文書/県史資1-450)などと見えることについては「隣接の渋谷荘といつか混同し,区別をつけ難いまでになっていた。想像すれば,まず渋谷荘が吉田上荘と同一化したのであろうが,吉田上荘と吉田荘の区別もまた曖昧であり,いつか吉田荘と渋谷荘が混同されるに至ったのであろう。その原因としては,両荘の現地を共通に支配していたのが渋谷氏一族で,渋谷氏の側に何らかの理由があったのではないかとも考えられるが,詳しくはわからない」と記している。しかし,吉田荘の名をとどめるとされる現在の横浜市戸塚区吉田町は,鎌倉末期には「山内荘吉田郷」の地で(円覚寺文書/同前2-1543),吉田荘を冠する郷村は高座郡内でかつ渋谷荘と共通していることなどから吉田荘・吉田上荘は当荘の別称と考えられる。「吾妻鏡」治承4年8月23日条には,相模国石橋山合戦で,源頼朝に敵対した大庭景親に属した武士の中に「渋谷庄司重国」が見える。渋谷氏は桓武平氏秩父氏の一族で,平安末期,重国の時に相模国に移住し,当荘を開発して渋谷氏を称しており,同書弘長元年5月13日条では重国を「相模国大名内也」と記している。平治の乱後,近江の佐々木秀義は本領佐々木荘を没収され,姨母の夫藤原秀衡を頼って奥州平泉に下向しようとして相模国にさしかかった際,渋谷重国が秀義の勇敢さに感じて当荘に居住するように引きとめ(吾妻鏡治承4年8月9日条),結局秀義は重国の娘婿となり,五郎義清が生まれている。石橋山の合戦の際,重国は外孫の義清を伴って参戦したが,源頼朝側について敗れた佐々木兄弟が頼朝の弟阿野全成とともに「重国渋谷之館」に逃れてきたときには,これをかくまっている(同前,同年8月26日条)。こうしたことから源頼朝に厚遇され,養和元年8月27日には,渋谷重国の知行地「渋谷下郷」の年貢が免除されている(吾妻鏡)。荘名の初見は,吾妻鏡文治5年11月17日条で,源頼期が鷹場を巡見するため,大庭の付近から「渋谷庄」までやって来たことが記されている。この時,重国は自分の館に頼朝を迎え,その酒宴は「経営尽美」といわれるほどであったという。また建久5年2月22日には,頼朝は勝長寿院の後の山麓に植えるための竹を「三浦・渋谷」などから取り寄せている(同前)。重国の本拠は,はじめ現在の藤沢市長後付近であったと思われるが,重国の子・孫が吉岡・早川・遠馬(恩馬)・吉田・石川・飯田・大谷・曽司・落合などと称していることから,のちには引地川・蓼川【たてかわ】・比留川の上流に勢力を伸ばし,開発を進めていったものと思われる(三浦古文化17号・藤沢市史4)。なお前述の渋谷下郷は,重国の本拠地付近を指していたものと思われる。当荘内を流れる境川・引地川・目久尻川などが相模野台地を浸食してできた段丘状の地を開発して成立した荘園で,自然湧水など水利に恵まれている。建久3年12月20日,源頼朝は,渋谷一族の武勇を賞し,「相模国吉田庄地頭」である渋谷氏を,当荘の領家近江国園城寺三門跡の1つ円満院に請所とすることを自ら申請し,その年貢を代納している(吾妻鏡)。この時の年貢送文を見ると,当荘から納めたものは,准布674反2丈,見布267反で,染衣5切・上品八丈絹6疋・納布9反・藍摺准布30反・紺布(無文)2反・率駄2疋・持夫7人(以上は布で代納)のほか,長鮑150帖・移花15枚・染革20枚などであった。下って文永5年11月13日の亀山天皇宣旨案によれば,「相模国吉田庄」などが,後鳥羽天皇の皇子で園城寺長吏であった覚仁法親王から,後嵯峨天皇の皇子でのちに園城寺長吏となった円満院門跡円助法親王に伝領されていることが知られる(桜井門跡荘園文書/県史資1-570)。建暦3年5月の和田義盛の乱の際には,渋谷氏は義盛方についたため,重国の二男以下は戦死し,当荘は女房因幡局に宛行われている(吾妻鏡建暦3年5月7日条)。下って,寛元3年5月11日の渋谷定心(重国の長男光重の五男,曽司と称す)置文では,当荘内における定心の4人の子たちの公事定田を定めているが,これによると,故入道殿(重国か)の定めた公事田数は19町4反で,定心の子明重(10町)・重経(4町3反)・重賢(1町6反)・重純(3町5反)らに配分されている。13か条にわたって一族のまもるべき心得などが置文として残されているが,公事に関するものは,京都大番事(田数分限によって4人でつとめる),鎌倉召夫事(打戻・深谷・藤意の北の負担),大ゆか番事(5分の2を明重が,残りを3人でつとめる),大庭御まき引人夫銭事(深谷と藤意の在家は100文,落合と下深谷の在家は200文,合わせて300文で人夫をつとめる),五所宮御祭礼や御修理事(各人の分限に従ってつとめる)などについて記されている(入来院文書/県史資1-368)。この五所宮については,現在,綾瀬市早川に五社明神社があり,重国の墓と称する墓石のある長泉寺も付近の祖師谷(中世の曽司郷)にあることなどから,このあたり一帯が曽司定心の本拠地と思われる(藤沢市史4)。その後,宝治元年の三浦泰村の乱の際,渋谷氏は北条氏側につき,翌2年その論功行賞として薩摩国入来院の地頭職を与えられた。このため渋谷氏は下向して本拠を薩摩国に移し,以後入来院氏としての発展をみる。渋谷定心は建長2年10月20日付で前述の置文を書き改めているが,ほぼ同文である(入来院文書/県史資1-411)。以降当荘は渋谷氏に分轄相続されていく。寛元4年3月29日の渋谷定心譲状案では「相模国吉田上庄内寺尾村」などが,三男寺尾重経に譲与され(同前371),寺尾村は重経から重通―惟重―重広と譲られており(同前825~827・2773など),元徳元年10月20日の関東下知状案まで確認できる(同前2-2773)。文永2年8月3日の渋谷明重(定心次男)譲状では「同(吉田上庄)藤意内立野伍町〈堺見絵図〉」などが子息有重に譲渡され(同前1-520),藤意は有重から甥重基~重勝と譲られ(同前1-906・3上‐3693),重勝から重門・重継の2子に分轄譲与された(同前3上‐4022・4023)。重継に譲られた分は,貞治7年8月6日付で重成から子息松丞丸に渡ったのが終見であるが(同前4627),重門の分は重頼―重長―重茂―重典―重聡と譲られ(同前4673・5391・5681・6020),永伝元(延徳2)年8月21日の渋谷重典譲状まで確認できる(入来院文書/県史資3下‐6398)。なお藤意は,貞和5年閏6月23日の渋谷重勝譲状案以降「渋谷曽司郷内藤意」と見える(同前4022)。正応元年6月27日の関東下知状では「吉田庄上深谷郷内田在家」が渋谷重継から弟の重村に譲られたのを承認している(岡元文書/県史資2-1060)。譲与の詳細は不明であるが,建武元年12月19日の渋谷鬼益丸代藤原家綱和与状では,渋谷重氏の遺領である上深屋などをめぐって相論があり渋谷氏に相伝されていたことがわかる(同前3上‐3198)。嘉暦3年12月19日の関東召文奉書案によれば,「渋谷庄(落脱カ)合郷内田畠在家」をめぐる渋谷重文と重棟の相論が知られるが(入来院文書/県史資2-2682),貞和4年6月14日に重職から王寿丸に譲られるなど(泰長院文書/同前‐3998),渋谷氏に相伝され,永享10年3月14日に重政から松五郎に譲られるまでが確認できる(大口高城氏蔵/鹿児島県史料)。これら渋谷氏の一族はほとんど本拠を薩摩国に移しており,当荘内においては鎌倉幕府からの御公事を出すためか,東国に下向したときの屋敷地として所領を保有していたものと推定される。なおこれより以前,鎌倉期の弘安8年2月22日には「渋谷庄西飯田郷内田壱町」などが幕府から右大将(源頼朝)家法華堂に寄進されている(法華堂文書/県史資2-1010)。渋谷上荘(吉田上荘)に属した村々としては寺尾村・上深屋村・落合上村・藤意などで,引地川と蓼川の合流地である落合より上流の引地川流域に位置している。戦国期には,大永8年2月6日の年紀をもつ大谷村神明社の棟札に「相州渋谷庄大谷郷」とあり,神明宮の宝殿が新造されている(新編相模)。また天文11年9月26日の北条氏康判物写にも「渋谷庄之内福田之郷・千束・七次・長期」とあり,段銭・棟別銭などの国役が免除されている(垪和氏古文書/県史資3下‐6763)。弘治2年5月2日の年紀をもつ鈴鹿明神棟札にも「相州田倉郡渋谷庄座間郷」とあり,この時遷宮が行われたことがわかる(新編相模)。なお天正18年の4月と推定される豊臣秀吉禁制の宛所に「□(多)加久羅郡しぼやの庄葛原之郷并しやうぶ,うちもとりの郷,石川之郷,ゑんぎやうの郷,やう田郷」とあり,秀吉は小田原攻めに際して当地を掌握したことがわかる(宝泉寺文書/藤沢市史4)。荘域は,藤沢市北部,大和【やまと】市,綾瀬市一帯に比定される。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7303663 |