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下中村(中世)


 戦国期に見える村名。相模国西郡のうち。初見は天文16年9月21日の北条氏康判物写で,小田原本光寺の建立に際し「相州西郡下中村内上町分百貫文地」が寄進されている(本光寺文章/県史資3下‐6820)。また,同19年7月17日の北条家朱印状写(同前6900)によれば,4貫278文の田地の帰属をめぐって上町と小竹が争ったので,北条氏がこれを上町分とした上で,本光寺に寄進している。なお,同年月日付で「下中村上町分検地帳」が作成されているが,これは実は直轄領であった天文10年に行われた検地によるもので,田は14町1反30歩(此分銭70貫542文),畠は27町5反50歩(此分銭45貫400文)となっている。その他に上町と小竹の相論の田地8反200歩があり,この年上町に属すことと定められたので,上町は合計120貫220文の地とされたが,実はこの中には「前川分」の田畠も多く含まれており,それを含めて「下中村上町分」と称されていることがわかる(種徳寺文書/県史資3下‐6901)。ついで,同20年7月2日に北条氏康は本光寺修理料として「下中村沼代分之内拾伍貫文之地」を寄進した(本光寺文章/同前6906)。また,同24年11月2日の北条家朱印状では,「本光寺領下中村之内上町分年貢反銭之事」について年内に皆済するよう代官・百姓に命じている(早雲寺文書/同前6993)。また,弘治2年9月14日の北条家朱印状写には,「本光寺領下中村百貫文之内,就風損前川分拾八貫文之半分九貫文同八貫弐百文十分一,合拾七貫弐百文被指置之由」と見え,風損などを除いた82貫800文を進納するよう命じている(本光寺文章/同前7018)。戦国期の「役帳」には小田原北条氏小田原衆花之木某の所領役高として「四拾六貫文 西郡下中村惣領分」,同じく小田原衆渡辺左衛門の所領役高として「五拾貫文 下中村惣領分内 大普請半役 今度被改上 知行役可申付」と見える。また,永禄5年9月6日の北条家朱印状写(同前7288)によれば,本光寺の修理銭として「下中村」において天文20年に寄進された沼代分15貫文は下地の支配を伴わないものであったので,寺の希望により,改めて「沼代之村岸分之内田畠拾五貫文」の下地が寄進されている。この地には代官石垣がおり,下中村一帯の地が北条氏直轄領であったことがわかる。同10年10月12日の北条氏康朱印状写にも「下中村」が見え,当地から本光寺御霊供米銭などが納められている(同前7569)。下中村内の地名として「上町」「沼代」「前川」などが見えることから,当地は現在の小田原市東部付近一帯にあたるものと推定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7303754