杉田郷(中世)

室町期~戦国期に見える郷名。武蔵国久良岐【くらき】郡のうち。康正年間以前に成立した「鶴岡八幡宮寺供僧次第」悉覚坊の教玄の項に「観応三年〈壬辰〉六廿六為仁木方横死〈六十四歳〉,依教玄入滅,仁木方罪科難遁之上者,彼拝領之内武州杉田郷被召上,被御寄進当社」とあり,仁木氏領であった当郷が観応3年6月に鶴岡八幡宮に寄進されている(続群4下)。下って文亀3年3月13日の快延・慶俊連署奉書写によれば「〈武州杉田〉幸蔵□□房」に対して,「相州鎌倉扇谷権現堂福禅寺」の名代や諸檀那について先例の通りはからうよう命じている(武文/県史資3下‐6435)。ついで,年未詳7月26日の三浦義同書状には「杉田郷之内平山寺領中里村観音堂免事」と見え,当郷内の平山寺領中里村が貯香軒に安堵されている(津久井光明寺文書/同前6521)。天文2年3月8日の熊野那智山檀那書出に「先達杉田満泉房」が見え,当郷在住の先達がいたことが知られる(米良文書/同前6645)。また天文8年卯月5日の熊野先達泉勝檀那注文には「武州久良気(岐)之郡松(杉カ)田郷」の檀那として間宮与七郎などの名が記されている(同前6718)。なお「快元僧都記」天文2年10月28日条には「自蒔田可被進木,杉田浦へ雖被著」とあり,鶴岡八幡宮造営に際して当地が材木の集積地となっていたことが知られる(神道大系)。当地を領していた間宮氏はこの杉田浦を拠点にして伊豆半島へ活動を広めた。戦国期の「役帳」には,小田原北条氏玉縄衆間宮豊前守の所領役高として「三百貫文 久良岐郡杉田,此外五拾貫文 鶴岡へ参,七拾五貫九百文 同所〈壬寅増〉……但杉田郷寅歳之増分者,惣次検地上役,可被仰付」,鶴岡社領として「五拾貫文 久良岐郡杉田之内」と見え,天文11年の検地増分75貫900文と鶴岡八幡宮領50貫文があったことがわかる。その他,小田原北条氏御馬廻衆間宮藤太郎の所領役高として「五十五貫文 東漸寺分,拾五貫九百四拾四文 同所〈壬寅増分〉」とある。東漸寺は鎌倉末期北条定長の開基と伝え,当郷内にあった(新編武蔵)。下って天正15年2月21日の北条家朱印状によれば,「鎌倉・杉田之内鶴岡社領」などから人足11人が鍬・簣を持参して同月晦日まで小田原に集まるよう命じている(鶴岡八幡宮文書/県史資3下‐9239)。天正18年4月日の豊臣秀吉禁制(武文/同前9762)が「武蔵国久良岐十二郷内杉田三ケ村」に下されており,秀吉は小田原攻めに際して当地を掌握しようとしたことがわかる。なお天正18年7月17日の鶴岡八幡宮領指出に「五十貫文〈武州〉杉田郷之内 但,放生会御神事領」と見える(後藤俊太郎氏所蔵文書/埼玉県史資料編6)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7303873 |




